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「ローさん」

その声にローは文字だらけの世界から意識を浮上させた。医学書を閉じて声のした方を見やるとなまえがどこか照れ臭そうに立っていた。淡いブルーのワンピースを身にまとった彼女はローに歩み寄るとお待たせしましたと軽く頭を下げた。

「すみません、準備に手間取ってしまって…」

そう言って綺麗に巻いた髪の毛を耳にかけるとなまえはにこりと笑った。

今日は久しぶりの島への上陸の日だった。すでに船番を除いたクルー達は島へと繰り出している。近頃は島を見つけても無人島であったり、とても上陸できないような島ばかりであったので今回の上陸をクルーたちは心待ちにしていた。船が港に着くやいなや飛び出すような勢いで船を降りていったくらいである。
そしてなまえもまた島への上陸を楽しみにしていた。

「昨日は上陸が楽しみであまり眠れなかったんです。私にとっては初めての上陸になるので」

そうなまえが言った通り、記憶を失った彼女にとっては今回の上陸は初めてということになる。なまえの記憶を自らの手で書き換えたローがまさか今回の上陸は初めてのことではなく3回である、だなんて教えるわけがない。クルー達も然りだ。

「…はしゃぎすぎて迷子になるなよ」

「なりませんよ!そんなに子供じゃないです」

「どうだかな」

なまえは唇を尖らせながらも意地悪く笑うローの背中を追った。船内から甲板へでるとシャチの姿を見つけ、なまえは彼に駆け寄った。

「シャチさん」

「お、なまえちゃん。これからお出かけ?」

「はい。ローさんの買い物の付き添いに」

「キャプテンの?」

驚いたようにシャチがローを見やった。自分が必要な衣服や生活用品さえもクルーに買いに走らせるローが一体なにを買いに出かけようというのか。それもなまえを引きつれて。
そのような疑問を含んだ視線をローに向けるとローは心底面倒くさそうに視線を逸らした。
そこでシャチは理解した。今回の買い物の目的はローの物を調達しに行くものではなく、なまえの物を調達するためであるということに。

「…キャプテンも面倒くさい性格してますね」

「うるさい。行くぞ、なまえ」

「え、あ…っ!それじゃあ行ってきます、シャチさん!」

「行ってらっしゃい。気を付けてね」

1人先に陸へと降り立ったローを追うようになまえも慌ててローの後を追った。まさかなまえがローと同じように陸へと飛び降りられるわけがないので、彼女はハシゴを使ってである。
慌ただしく出かけて行った2人を見送ったシャチはやれやれと肩を竦ませた。


2人は活気あふれる島の市場へ向かった。行き交う人々の笑い声や客引きをする店員の元気のいい声。賑やかな街の様子になまえは心を弾ませていた。
その一方で嬉々と自分の前を歩くなまえの姿にローもまた静かに頬を緩めた。
――こんなに穏やかな時間を過ごすのはいつぶりだろうか。
ここ数日、なんとかなまえの記憶を取り戻させる手立てはないのかと医学書を読み漁っていたローにとって今日のような日は久方ぶりであった。

「ローさんは何をお探しなんですか?」

「…俺のものはこの島にあるかどうかもわからねぇものだ」

「え?じゃあ見つからないかもしれないんですか?」

「そんなところだ」

まさかここでなまえのための買い物だとはローの性格上言えるはずがない。見つかるといいですね、とニコニコ笑うなまえを前にローはどうしたものかと内心溜め息を吐いた。

行き交う人々に目をやる。家族、恋人同士、友人同士…。幸せそうなその光景にローは数歩前を歩くなまえの小さな背に視線をやった。
いつから掛け違えたというのだろうか。彼女をヒューマンオークションで落札したあの日だろうか。それとも心の中に芽吹いたこの感情に気付き、認めたくないが故に彼女に酷い仕打ちをするようになったあの日か。ようやく芽吹いた感情と向き合えるようになったローに愛していると告げたなまえ。その想いにまだ答える術を持っていなかったロー。そして気が付けばすぐ傍にいたなまえは思い出だけを残して手が届かない遠いところにいってしまった。どう足掻こうと歩み寄り始めたあの日々にはもう戻れない。

そこまで考えるとローは妙な焦燥感に駆られた。そして居ても立ってもいられなくなって咄嗟に彼女の手をつかんだ。

「っ、ローさん?どうかされましたか」

「…いや」

突然手を強い力でつかまれたなまえは驚いてローの方へと振り返った。しかしローはなまえの手をつかんだ理由を上手く伝えることができなかった。きょとんとローを見上げていたなまえだったが、ローの様子にくすりと笑ってローの手を優しく握り返した。

「私、こんなに人が多かったら迷子になっちゃうかもしれないです。だから、このまま手を握っていてくれませんか」

――先に手を差しだしたのはローだったのか。それともなまえだったのか。

なまえの言葉にローはその手を強く握り返して答えた。その不器用な答えをしっかりと受け取ったなまえはローの手を引いてまた歩き始めた。
その2人の姿は行き交う人々以上に幸せそうなものだった。

title 花畑心中