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ローの不器用な優しさに包まれてなまえは日々の生活を送っていた。しかしその自分を見つめるローの眼差しに僅かな悲しみが混ざっていることに気付いてから、少しだけ寂しさを感じるようになった。ローが見つめているのは「自分」ではないと知ってしまったからだ。
ローは記憶がもどることを望んでいるのだろう。無理に思い出さなくていいと言ったが、不意に見せるあの眼差しでいつも「なまえ」を探している。なまえはそのことを痛いくらいにわかっていた。
ーーいつまでローを傷つけ続けるのだろうか。
見いだせない答えを探して途方に暮れるのはもう何度目だろうか。
「髪が伸びたな」
沈んでいたなまえの意識を浮上させたのはローだった。なまえはぼんやりと医学書に落としていた視線をローにやると首を傾げた。
さらり。すっかり伸びた髪がなまえの肩を滑る。
「髪ですか?」
なまえは髪を一房手にとると不思議そうにローに尋ね返した。彼女自身、それほど髪が伸びたという自覚はなかったらしい。しかし言われてみれば伸びた気がするとなまえは試しに髪を1つにまとめてみた。
「本当ですね…。気がつかなかったです」
「鬱陶しくねぇのか」
「そうですね…。本を読んだりする時は少し邪魔だと感じますけど…」
そういえば最近本を読んだり、食事をする時に髪が垂れてきて鬱陶しかったなとなまえは思い出した。その時はそこまで気にすることなく、髪を耳にかけてその場をやり過ごすことがほとんどであった
なまえは医学書をデスクにおくと部屋の隅に置かれている姿見の前に立った。
「うーん…。切った方が…」
「長いのは嫌なのか」
「そういうわけじゃないですけど…」
姿見の前で髪をいじるなまえを遠巻きに見ていたローは切るべきかと悩む彼女の傍によるとその髪をすくった。
傷みのない髪に指を通すとするすると引っかからずに毛先まで滑っていく。手触りの良さに少しばかり感動したローは何度もその髪に指を絡めた。髪が揺れるたびにふわりと花のような香りがローの鼻腔をくすぐる。
「伸ばしておけばいいじゃねぇか」
なまえは長い髪がよく似合う。そうローは思っていた。長い髪を風に揺らして振り返るなまえの姿はとても綺麗なのだ。
ローの言葉に悩ましげな表情を浮かべていたなまえは嬉しそうに頷いてた。
なまえが伸びた髪を細い指先で梳かしていく。
しばらくそうして髪を梳かしていたなまえだったが、なにかを思いついたのか不意に振りかえってローの手を取った。
「…ローさん。ひとつだけワガママを聞いてくれませんか」
「…内容による」
そうローが答えるとなまえはローの手を引いて傍にあるソファに座った。そしてデスクの上におかれている小さなアクセサリーボックスを手繰り寄せると中からヘアゴムを2つ取り出した。1つはいたって普通の黒いゴム。もう1つは貝殻の飾りがついた綺麗な飾りゴムだ。その2つのヘアゴムとブラシをローに手渡すとなまえは彼に背を向けた。
初めこそ一体なにが目的だと怪訝に眉を顰めていたローであったが、手渡されたヘアゴムとブラシを見るとすぐになまえの言うワガママを理解した。
「…1つに縛るくらいしかできねぇぞ」
「ふふ。じゃあポニーテールでお願いします」
ローはブラシを手にとると優しくなまえの髪を梳かした。全体を梳かし終えると髪を1つにまとめて丁度いい辺りまで手櫛で持ち上げていく。そしてまたブラシを使って髪を整えると黒いゴムで縛った。縛る際に緩んでしまった隙間をぎゅっと力を込めて締める。
仕上げに貝殻の飾りがついたゴムを根元に巻きつけると軽く髪を整えて、なまえの背を叩いた。
「下手でも文句言うなよ」
なまえの手をとって彼女を姿見の前まで誘導する。すると姿見に映った自分の姿になまえはぱっと顔を綻ばせた。
「やっぱりローさんは手先が器用だからすごく上手ですね」
「…誰にでもできるだろ」
「ローさんに結ってもらったことに意味があるんです」
ポニーテールを揺らして喜ぶなまえ。その姿にローはクツクツの喉を鳴らして口元を緩めた。
とても幸せな時間だ。心地よくて、やさしくて、愛おしい。この時間がずっと続けばいいとローは心の中で思った。そしてその思いはなまえも同じだった。
「また結ってくださいね、ローさん」
――そうやって喜ぶなら何度でも、いつまでも。
その言葉をローは口にすることはなかった。しかし代わりに可愛らしく跳ねる毛先をつかんでそっと唇に寄せた。
title るるる