26
ベポは黒い瞳に涙を溜めて、船を降りるようとするローの背中に問いかけた。
まもなく、ローはドフラミンゴを討つために船を降りる。このことはすでにクルー達に伝えてあった。勿論船長であるローだけを行かせるわけにはいかないと、クルー達は猛反対した。
しかしローの固い覚悟を止めることはできなきなかった。
そして、今日、ローが船を降りる。
すっかり夜が更け、月光が降り注ぐ真夜中。クルー達に見送られ、ローはその時を迎えた。
「決めたことだ」
「…なまえはどうするの?きっとキャプテンがいなくなったら寂しがるよ…」
ローはなまえには船を降りることを伝えていなかった。なにも知らされていないなまえは、1人、自室で眠りについている。船を降りる時間を真夜中にしたことも、すべてなまえに気付かれないためだった。
ローはなまえに「さよなら」を言いたくなかった。これが別れであってほしくないからだ。
必ず、必ず、ここに帰ってくる。
そう強く心に決めていた。
「…なまえが船を降りたいと言ったなら、何も言わず降ろしてやれ」
「でも…!」
「ベポ」
声を荒げるベポを制したのはシャチだった。その一声にくしゃりと顔を歪め、ベポは零れてしまった涙を隠すように拭った。
シャチはローの気持ちを誰よりも理解していた。この覚悟を決めるまでどれほどローが悩み、苦しんだのかもすべてわかっていた。愛する人を残していかなければいけないローのことを考えるとシャチは身が裂かれるような思いがした。
勿論、ベポが言わんとしていることも、わかっていた。なにも伝えずに行ってしまうなんて…。
置いていかれた方の気持ちはどこにやればいいのだろうか。
なまえのことを想ってか、ローの瞳がかすかに揺れる。その一瞬をシャチは見逃さなかった。
「…もし、なまえが俺の帰りを待ち続けて、俺が帰ってこなかったらこれを渡せ」
そう言ってローがシャチに手渡したものは1通の手紙だった。
シャチはその手紙をしっかりと受け取ると力強く頷いた。
ローもまた小さくシャチに頷く。そして自分を見送るクルー達を見渡すと安心したかのように頬を緩ませた。
――なまえに想いを告げるのは、すべてが終わったあとだ。
必ず、すべてを終わらせて、ここに帰ってくる。そして帰ってきたときに、なまえがまだ自分の帰りを待っていてくれたらなら。
――その時は…、その時は…。
「あとは頼んだぞ」
願わくば、2人の未来が一緒でありますように。
船を降りたローの後姿にシャチは、そう、そっと祈いを込めた。
――「なまえ」
とても、とても、心地のいい声だ。やさしくて、あたたかくて、やわらかくて。愛しさが溢れる。
なまえはその声のする方へと歩み寄る。
あたりはどこまでも続く地平線だった。恐怖さえ覚えるその広大な空間を声に導かれるままに進んでいく。
ふと見やるとすこし離れたところに1人の男が立っていることになまえは気が付いた。
その男はこちらを見やると黙って背を向けて歩き出した。
「あ…、待って…!」
衝動的になまえはその男を追いかけた。しかし一向に男となまえの距離が縮まることはない。どれだけ走っても男に追いつくことができないのだ。
それどころかだんだん男となまえの距離は広がっていくばかり。このままでは見失ってしまう。そう思い、突発的になまえが叫んだ。
「待って!ローさん!」
――ロー…?
無意識に口をついたその名前に背を向けていた男が立ち止まった。なまえは急いで男に駆け寄った。
そして恐る恐るその男の顔を覗き込むと、目を見開いた。
「ローさん…」
その瞬間、なまえの脳内に凄まじい衝撃が走った。そして、なまえの瞳から一筋の涙が伝う。
――バラバラにくだけ散っていたすべてが結びついていく。
なにもかもをなまえは思い出した。
海賊に襲われて瀕死状態であったこと、薄れていく意識の中でローのことを待っていたこと、そして、記憶を失っていたこと。
なまえは溢れて止まらない涙に思わず顔を手で覆った。するとその手がそっと顔からはがされた。
「泣くな。お前はなにも悪くない」
「…っ、ローさん、私…っ」
「なにも言うな…」
どれだけローを悲しませてしまっただろう。そう考えるとなまえは涙が止まらなかった。
ローはずっと待っていたくれた。あの日に交わした約束を違えずに、ずっとずっと自分を傍に寄り添わせてくれたのだ。
ぽろぽろと涙を流すなまえをローはやさしく抱き寄せた。なまえもまたローに縋るようにその背中に腕を回した。
「ごめんなさい…っ、わたし…、ローさんに辛い思いを…」
「思い出したならそれでいい。だからもう泣くな…」
ローは子供のように泣きじゃくるなまえの背中を撫でてやった。
そしてなまえが落ち着きを取り戻してきたころ、そっと彼女の頬に手を当てた。
「なまえ、俺はもう行かなくちゃいけねぇ」
「行くって…どこにですか…?
なまえがそう問うても、ローは曖昧な笑みを浮かべるだけで決してその問いに答えることはしなかった。ただ、おだやかな光を灯した瞳で戸惑いを隠せないなまえを見つめるだけ。
ざわりと嫌な予感がなまえの胸の中に広がった。この手を離してしまったら、ローがどこかに行ってしまいそうで、なまえは彼の手を強く握った。
「お前には謝らなくちゃいけねぇことがたくさんある」
「…っ、聞きたくないです…」
「…、伝えなくちゃいけねぇこともある」
「ローさん…!」
それ以上、なにも言わないで。
そう想いを込めて、ローの口を塞いだが、その手はやさしく退けられた。行き場を失くしたなまえの手をローは慈しむように自分の手で包み込んだ。
じわりと2人の体温が交じり合う。
「1つだけ聞かせてほしいことがある」
「………っ」
「お前は、俺と出会えて幸せだったか」
そう問いかけるローの表情はこれまで見たことがないほどにやさしいものだった。
なまえは溢れる涙を拭うと、くしゃくしゃで、だが、幸福に満ちた笑顔を浮かべて、大きく頷いた。
「幸せです。これからも、ずっと、ローさんの傍にいることが私の幸せです」
ローはなまえの返事に安堵したように頷くと、最後にぎゅっと彼女を抱きしめた。
あわく、はかなく、目の前のローが消えていく。その姿を見届けてなまえもまたそっと目を閉じた。
――「さよなら」、は、言わない。
title 花畑心中