人生万事塞翁が虎

僕の名前は中島敦。
故あって餓死寸前です。
孤児院を追い出され、食べるもの、寝るところもなく、かといって、盗みをはたらく度胸もなく、こんな処まできてしまいました。

生きたければ盗むか奪うしかない。
けど…

【お前など孤児院にも要らぬ!】
【どこぞで野垂れ死んでしまえ!】

追い出された際に言い放たれた言葉が蘇る。
(五月蝿い、僕は死なないぞ…………!)
生きる為だ。仕方が無い。
(よしっ!次に通りかかったそいつの金品を奪ってやる!)

そう拳を握りしめ決心した敦。そう決めたはいいが――
世の中上手くいかないことと同じように、世の中盗みをするような屑に上手く行けるわけがない。
先程から気配を察知して振り向けば逮捕級の速度で走り去ったバイクや夕刻には珍しい軍警の団体でのランニング
ただし、軍警までも挑もうというその度胸は称賛に値するであろう。
しかし明らかにひ弱そうな敦にしかも空腹で野垂れ死にそうな人間に勝ち目はない
いや、そうでなくてもそうした場合彼の今度の寝床は牢の中になるだろう。

そんなことすら考える余裕がない彼に格好の鴨が訪れ

「済みません…少年」
「っ、わああ!」

もう最早彼は人ではない。空腹で満たされた人の皮を被った野獣だ。現に、今勝手に鴨扱いされた女一人が襲われている。河川敷の砂利の上に組み敷かれている。

「っ、何、ですか君は!」
「か、金を寄越せ!然もなくば殺すっ!」

これでも必死に紡いだ言葉だ。何せ、窃盗に脅しなど人生経験にないのだから。

其れを分かっての事か女は先程のひ弱そうな雰囲気を消して淡々と口を開いたのだ

「……殺す?君が此方(わたし)を?……悪いがそれは相手が悪かったとしか云いようがない、そして今私はお前が求めているような物は持ち合わせていない」
「そ、そうですか…」

途端に力が抜けて地面に座り込む敦と同時に女は起き上がり即座に何処からともなく現れた拳銃の銃口を敦の眉間に押し付けた。

咄嗟の事で敦はまだ状況整理ができていないが、必死に言葉を探した結果、「あの…」だけだった。


「窃盗しようとする奴に本当の事を云うと思うか?それに、殺意のある者をみすみす逃すわけないだろう?」
「い、いいいや!僕は別に貴女を殺そうと思ってません!」
「云っていることが矛盾しているぞ少年。では、先程の脅しはどう説明がつく?」

女は冷徹にまるで窃盗をしようとする敦を見下すかのように目を細める。
対して、敦は殺される不安と恐怖で頭が一杯だ。
それよりも、頭の片隅では先程のお淑やかな女性は何処へ?と云うほどの豹変ぶりにビビっていた。
今、彼女の目には明らかに自分への殺意が籠っている。
そんな中でも必死に弁明と謝罪を繰り返すも一向に信じてもらえず困り果てている。

「……本当か?犯罪者は信用ならないから…」
「……(ゴクッ)」

暫くお互い沈黙していたが女が口を開き、銃を降ろした。
「……君は見るからにひ弱そうですね。犯罪には向いていませんよ?」
「えっ、あ、はい、まあ孤児院に追い出されたような男なので…」
「そうですか…で、聞きたいことがあるんです。少し宜しいですか?」

銃をしまい、茶黒の艶やかな髪を耳に掛けて女は見据える。
その姿に思わず見惚れてしまう敦。それはそうだろう。孤児院から追放されてこういった綺麗どころの女性には会ったことがなかったのだから。

「此方の名は清水紫琴。ある人を探しているんだけど…ご存じありませんか?この写真を見て見に覚えがあるのなら教えて下さい」

そう言って差し出したのは一枚の写真。勿論、ある意味お尋ね者の太宰という男。
其れを見せて問うが、敦は見に覚えがないという。

「そう…何か分かったら此方のところまで掛けてくれますか?はい。これ電話番号」
「は、はい……あれ?」

そう言ってわなわなと震える敦を見た紫琴はどうしたのかと問う。
すると、右手の人指し指が震えながら紫琴を通り越して川を差す
それに振られ紫琴も思わず見てしまった


水面に両足だけ出て溺れている。その光景に二人は絶句。しかし、そうしている間にも時間は過ぎていく、過ぎていくから川も流れる。川も流れるから人も流れる…

「真逆…否、嘘でしょう?」
これはノーカンでしょ?…ノーカンにさせてください…ノーカンに…っえい!!」

一人でブツブツ呟いたかと思うと勢いづけて川に…飛び込んだ。紫琴は驚愕の顔を浮かべ敦を呼ぶ。しかし、応答はなく辺りは静まり返った


「嗚呼…これはいけない。【入水】した太宰君の所為で少年が死んだりしたら…」

入水…つまり自殺だ。そう、治は故意的に川に飛び込み今に至る。
国木田が【太宰が…川に落ちた】というのは何かに滑ったり躓いて川に落ちたということではなくて…きっと…

「ぷはあっ!!…はあ…はあ…清水さん!て、手伝ってください!」
「え?あ、嗚呼、はい」

沈んだと一瞬思った敦が川から顔を出して紫琴に助けを求めた。
紫琴は彼が生きていたことに安堵して河岸に太宰を引き上げた。



「はあ…、はあ…ふう…」
「申し訳ありません。見ず知らずの方にお手を煩わせてしまって…感謝します」

呼吸を整えている敦に感謝を述べた。
すると、今まで気を失っていた太宰が突如ギョロリ目を開けるとゆっくりと起き上がった。
敦はそのことに思わず声を上げるが紫琴は溜め息を吐いた

「川に流されていましたけど、大丈夫でしたか?」
「……助かったか……ちぇ」

返ってきた言葉は助かったかことへの安堵でもなく、自殺とはいえ死ねなかったことへの罪悪感でもなく不満。そのことに当然驚く敦。

「(ちぇ!?今この人…"ちぇ"って云った?)」
「残念でしたね。今回も死ねなくて」
「(今回も!?)」

「君かい?私の入水を邪魔したのは」

太宰と紫琴の発言に疑問を抱くしかない敦。だが、ここで聞き慣れない言葉が頭に浮かんだ

「僕はただ助けようとして…。…入水?」
「知らんかね。入水…自殺だよ」

益々意味が分からないといった顔になる。
一体何を云っているのだこの男は。

「そう。私は自殺しようとしたのだ…それを君が余計なことを…」
「(ええ?!僕今…怒られてる?)」

完全に不満を漏らす太宰に敦も困り果てている。いや、逆に川に溺れている人がいたら助けるのが道理だろう
そこに紫琴が助け船を出す

「彼は貴方を助けてくださいました。先ずは礼を云うのが道理でしょう?」
「…うん。ありがとう紫琴」

いや…此方に云うのではなくて…。

「此方に言ってどうするの?【彼が】君を助けてくれたんです」
「えー?紫琴私に遭いに来てくれたんじゃないのかーい?」
「…その此方で一杯で他が空っぽな脳みそに刺激を与えた方がいいのかもしれないですね」

「あの…」
「まあ何にせよ…人に迷惑を掛けないクリーンな自殺が私の信条。しかし、現に君に迷惑をかけたのは此方の落ち度。何かお詫びを…」

すると、何処からともなく空腹を示す唸り声が聞こえた。
しかも真正面から。

「空腹なのかい?少年」
「実はここ数日何も食べてなくて…」

そう言い終わるや否や再び唸り声が聞こえた
今度は隣から。

「奇遇だな。実は私もだ」
「え!それじゃあ!」

「因みに財布は流されたようだ」

そう言って太宰は自分のチェスターコートのポケットの中を出した。するとそこには言った通り財布の姿はなく代わりに蛙やらが出てきた
やはり世の中、上手くいくもんじゃない

「そ、そんな〜」
現実を突きつけられ落ち込む敦。

その時、

こんな処に居ったか唐変木!!

川の向こう側から怒鳴り声が聞こえた。
唐変木…簡潔に答えると役立たずという意味だろう

「云い忘れていましたが国木田さん今までずっと貴方を捜し回っていたのではないでしょうか」
「おー、国木田くーんご苦労様〜!」

しかし、太宰は呑気に手を振って態々相手の癇に障ることを言う。

「何がご苦労様だ、苦労は凡てお前の所為だ。この自殺嗜癖(マニア)!お前はどれだけ俺の計画を乱せば」
「あ、そうだ君良いことを思いついたよ。彼は私の同僚なのだ。空腹ならば彼に奢って貰おう」


人の話を聞けぇぇ!!

再度怒鳴り声が聞こえれば敦はビビって後退する
紫琴は何時もの事だからと言って笑ってはいるが、その笑顔は完全なつぶやいものではなく、何処か濁ったような笑みだ

「君、名前は?」
「中島…敦です」

「じゃあ敦君、君も付いてき給え。何が食べたい?」

そう聞かれると今一答えづらい。敦が少し迷っているような素振りを見せたものだから紫琴が遠慮しなくていいと付け足した。すると…

「茶漬けが…食べたいです」

そう照れたように呟いた。すると、それを聞いた太宰は途端に笑い出した。

「ふふふ…はははは!餓死寸前の少年が茶漬けを所望か。いいよー、国木田君に30杯くらい奢らせよーう!」

そう勝手に決めれば、国木田は黙っていないわけで…

「俺の金で太っ腹になるな太宰!」


「?太宰?」
「ああ、私の名だよ。」

そう言えば辺りに強い風が吹き渡る。
紫琴の長い髪も風によって遊ばれ靡く

「私の名は太宰。太宰治だ」


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