五虎退はよく泣く


べにの寝顔を悲しげに見つめながら考え込んでいる、五虎退。
その傍らで、五虎退とべにを交互に見ながら時折心配そうな鳴き声を漏らす五匹の仔虎。
いつ終わるともわからぬ静寂を破ったのは、合計12個の瞳から見つめられていたべにだった。


「ん〜〜〜」

「っ!!!???」


不意にばたばたと動き出した手足に思い切り驚いて、五虎退は正座のまま一歩後ろにずり下がった。
ぎゅっと強く閉じられた瞼、奇妙な形だが引き結ばれた唇。
一体何が、どうしたら、と涙目の五虎退が見守る中、べにはなおも大きく腕や足を動かして暴れる。
―――そよ風が吹き込んできているとはいえ、暖かな午後のひと時。
かけられた布団は厚いものではなかったけれど、赤子の体温は高いもの。
べには一見ばたばたと動いているだけの手足で器用に布団を跳ね除けると、涼しくなって満足したのかまた安らかな顔で眠りに戻っていった。
いや、そもそも起きていなかったのかもしれないが。


「・・・あ、主・・・様?」


恐る恐る五虎退が声をかけても、返事はない。
返ってきた静かな寝息に、五虎退は先ほどよりもずっと慎重にべにの傍に近付いた。
そのまま顔を覗き込んでも、べにの表情は変わらない。


「・・・寝てる・・・」


呆然と呟いた五虎退は、次に今の今目の前で正に蹴り飛ばされた掛け布団に目をやる。
かろうじて足に引っかかってはいるが、おおむね役割を果たしてはいない。


「・・・か、風邪を引いちゃいますよ、ね・・・?」


もう一度かけようと思い布団に手を伸ばすものの、暑くて嫌なものをまた主にかけるのはいささか気が引ける。
実際、べにの髪の毛は汗を含んでぺったりと額にくっついていて、その体感温度を物語っていた。
けれど、汗が冷えて風邪を引いてしまっては、でも、それこそ汗のかきすぎで体調が悪くなったりは。
おろおろと、布団に手を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返す五虎退。
その後ろで五虎退を見上げていた仔虎が、その視線をべにへと向けた。
鼻を軽く引くつかせると、そっと腰を上げてべにへと近付く。
猫科の動物は、総じてほぼ足音がない。
布団に意識が向いている五虎退はそれに気付くこともなく、五匹の仔虎はそれぞれが思い思いの箇所に鼻先を近付けていた。
2匹は握り込まれた拳の傍に。
2匹は薄い毛の生えそろった頭のてっぺんに。
そして一匹は、その赤い頬を伝い落ちる汗の粒に小首を傾げた。
クンクンと匂いを嗅いで、ぱちりとひとつ瞬きをすると、赤い舌を出してザラリと舐め上げる。
猫科の舌は、結構痛いのだ。
「ぁう・・・」と小さく反応したべにに、うんうんと唸っていた五虎退がはっと振り返る。
さっきまでおとなしく座っていたはずの仔虎たちがそろってべにを取り囲んでいるのを見て、五虎退はさっと顔から血の気が引くのを感じた。


「あっ・・・駄目だよ、虎くん・・・!」


その言葉も虚しく、ぐずり始めたべにが腕を動かすのと、手の傍にいた仔虎がちょっかいを掛けようと片足を上げたのとが、運悪く重なって。


「・・・・・・ふあーーーーーっ!!!」

「きゃーーーーっ!!?」


ドタドタガンドンドタドタ
バンッ!


「どうしました!?何事です!」

「ふあ゛ぁーっ、ふあ゛ぁーーーっ、ふあ゛ぁーっ!」

「いちに・・・!す、すみませ・・・っ!!ぼ、僕・・・っ!!!」


べにの酷い泣き声が響く中、足音も荒く部屋に飛び込んできた一期。
その後ろに続いた鳴狐とお供の狐は、部屋に入った瞬間に鼻を引く付かせた。


「!この匂いは・・・べにどの、怪我をされていらっしゃいますよぅ!?」

「!そんな、つもりじゃ・・・!と、虎くんたちも、そんな・・・!」


部屋の中を見れば、すでに仔虎の姿はべにの傍にはない。
部屋のところどころにある家具の隙間から見える白と黒の縞模様からして、泣き声に驚いて逃げ出したらしい。
鳴狐はすばやくべにの傍らに跪くと、その体を検分してすぐに手の甲にある薄い引っかき傷に気がついた。


「・・・薬研を呼んできて」

「わかりましたぁ!」


ぴょん、と鳴狐の肩から飛び降り、てててっと中々の速さで部屋を飛び出していくお供の狐。
・・・普通の子どもなら、この程度おそらく問題はない。
ただべには、未だ赤子―――まだ、抵抗力に心配が残る。
神の一部とはいえ、虎の爪に引っかかれたのだとしたら、感染症が気がかりだ。
とにかく、と鳴狐は大泣きのべにを一度抱き上げて、あやすように小さく揺らす。
その間にも一期はこちらも大泣きの五虎退を慰めつつ、根気よく事情を聞いていた。


「ふぇ・・・っ!あ、新しい主様がどんな方なのか・・・気になって・・・っ!」

「それで、様子を見にきたのかい?」

「でっ・・・でも・・・っ、ひっく、虎さん、は、遊ぼうとした、だけでぇ・・・っ!!」

「・・・成程・・・」


断片的ではあるが、大方の事情は把握した。
要はまあ、事故というやつだろう。
しかし前例ができてしまった以上、下手に仔虎をべにの元へ近づけるわけにもいかなくなってしまったな、と五虎退に気付かれないよう一期はかすかに表情をゆがめた。


「べにが怪我したって?」

「お早いですね」

「近くまで来ておられまして。薬を取りに一度戻ったくらいですよぅ」


開け放ったままの障子から飛び込んできた薬研に、立ってべにをあやしていた鳴狐が振り返る。
その肩越しには落ち着いたのか、うつらうつらと目を半分閉じているべにの顔がのぞいていた。


「・・・んーと、あぁ、これか。これぐらいならまぁ、余計なモンが入らねぇよう、軟膏塗っとくか」

「先ほどまでの火のつき方が嘘のようですな!」

「・・・寝ぐずりも、あったと思う」


清潔な水を含ませた綿で傷を軽くぬぐうと、持ってきた軟膏をそっと塗りつける。
それを舐めてしまわないかが少し心配だが、手の甲だし、寝ているし。おそらく大丈夫だろう。
べにはこれで問題ない。残るは・・・
薬研は軟膏の蓋を閉じながら、そっと一期と五虎退の様子を盗み見た。
先ほどよりは落ち着いたものの止まる様子のない五虎退の涙を、膝をついた一期がそっと拭っている。
その正に“兄”とした姿に、あぁ、こりゃまったく問題ないな、と薬研は小さく息を吐いた。


「・・・五虎退、べに様の体はまだ作られる途中なんだ。私たちとは比べ物にならないほど、脆いんだよ」

「っ・・・っ・・・ひっく・・・は、はいぃ・・・っ」

「もちろん虎たちにも傷つけるつもりなんてなかっただろうし、今回は悪い偶然が重なったんだと思う」


コクリ、と五虎退が頷く。
その殊勝な姿に胸が痛むのを感じつつ、一期は与えられた知識の中から言葉を探す。
結果的に内容は同じでも、五虎退を出来る限り傷つけない方法を取りたかった。
手入れで治るこの肉体ではなく、心を。


「・・・でも、虎をべに様の傍に近づけるのは、べに様がもう少し成長されてからのほうがいいかもしれないね」

「せ・・・せいちょう、・・・ですか・・・?」

「そう、だね・・・小さな怪我をしても、我慢できるくらいになってから、かな?」


慎重に選んだ言葉は、幸運なことに五虎退の表情をそれ以上ゆがめることはなく。
きゅ、と唇を引き結んだ五虎退は服の袖で涙を拭くと、鳴狐に抱かれたまままた眠ったべにに向けて頭を下げた。


「・・・わかりました・・・あの、主様、本当に・・・すみませんでした・・・!」

「名前で呼んでやりな」

「・・・え・・・?」


返ってきたのは、意外な声。
思わず顔を上げてそちらを見れば、薬研がニヒルな笑みを浮かべていた。
「最近、自分の名前がわかってきたみたいでな。名前を呼ぶとうれしそうに笑うんだ。べにっていうんだぜ」
可愛い名前だろ?と誇らしげに言われて、べにさま、と口の中でつぶやく。


「お前までべにから離れる必要はないぜ。虎を外で遊ばせてる間に、ここに来ればいいんだからな」

「・・・!・・・はい・・・!」


決意を見透かされていたことと、それをあっさりと否定されたこと。
どき、と大きく跳ねた心臓がどちらに反応したのかはわからなかったけれど、五虎退は今、自分が喜んでいることをはっきりと感じていた。
べにさまとこれからもお会いできることだろうか?それとも、名前をお呼びできること?
―――薬研兄が、自分を受け入れてくれていること?
周りから否定の言葉が出ないということは、少なくとも一期と鳴狐は五虎退を認めている。
・・・それだけで、一歩強くなれる気がした。

そろりと家具の隙間から姿を現した仔虎たちを、「次は、気をつけ、ようね」と優しく抱き上げる。
しょぼんと垂れた頭を何度か撫でて、未だに五虎退と同じような体勢でべにを抱え続けている鳴狐の下に近づいた。


「あ、あの・・・鳴狐さんも、すみませんでした・・・ご迷惑を・・・」

「・・・役得」

「・・・はい?」


ぼそりと聞こえた言葉はお供の狐ではなく、鳴狐本体から呟かれたものだったが。
何とか聞き取れたものの意味がわからず、五虎退は貴重な鳴狐との会話を「やくとく?」と首を傾げるに終わってしまった。


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