歌仙兼定は雅を伝える
さわさわと、風が木々を揺らす。
ひらひらと、どこからか舞い込んできた花びらが空を彩る。
―――この本丸は、心地いい風が吹く。
戦場の血なまぐさいそれなど知らぬとばかりの清い風に、歌仙は目を細めて息を吸い込んだ。
「いい天気だ・・・風流だねぇ」
「あー」
「おや、べには雅がわかるのかい?」
「あーぅ!」
「これはこれは、恐れ入ったよ」
腕の中のべにを軽く撫でて、その手触りにうっとりと酔いしれる。
皇かな肌を縁取る薄い産毛は撫ぜる手を優しくくすぐり、まるで惹かれるようにもう一度、と手を伸ばさせる。
少し前までは頭の形をはっきりと見せていた細く薄い髪は、ここ最近で随分とふくらみをもってきた。
赤子の手触りはまるで媚薬だね、ともう一度そっと撫でると、歌仙は再びゆっくりと歩き始めた。
そろそろ外の空気に触れさせよう、と言い出したのは誰だったか。
首もしゃんと据わっているし、縦での抱っこもしやすくなった。
これならば、と誰も反対しなかったのは、ごく自然の流れだろう。
ただその中で誰がべにとの“始めてのお散歩”なるものをするか、となったときは、かなりもめる羽目になったが。
一瞬脳裏を過ぎりそうになったその記憶に賢明にも蓋をして、歌仙はそれなりに重みを感じるようになってきたべにの身体を抱きなおす。
体勢が変わったことを感じたべにが歌仙を見上げる視線を感じながら、歌仙は近くの枝から葉を一枚ぷちりと取った。
葉に虫が付いていないか、棘がないかをよく検分して、一度軽く拭うと歌仙を真似て同じように葉を見つめるべにに差し出す。
きょとんと目を丸くしたべにに、くるりと葉を回して見せた。
「では、もっと季節を感じられるものを教えてあげよう」
「うー?あーま、あぶ、」
「今は丁度、緑の終わる季節。そろそろ葉の色も落ちてくる頃だろう」
歌仙から葉を受け取ってじっと見つめ、むにむにと唇に押し付けるべに。
口に入れようとするのを「ダメだよ、」とそっと遮れば、歌仙をじっと見上げたべにはもう一度葉に目を落として顔を近付けた。
口に入れる様子は、ない。
「いい子だ、」とまた頭を撫でて、さわりと頬を撫でる風に顔を上げる。
青い空に浮かぶ、白い雲。
それを縁取るかのような、鮮やかな木々の緑。
時折聞こえてくる鳥の声はなんとも言いがたく雅な趣をかもし出していて、こんな穏やかな空気はこの本丸だからこそなのだろうと胸中で誇らしさを感じた。
他にも本丸があることは、知っている。
だが、他を知らねば、ここが随一だと感じるのは自身の勝手だろう?
「周りの景色の色を、よく覚えておいで、べに」
「いー?」
「そう、色だ。春は桜、夏はもえぎ。秋は錦で、冬は白銀。ここは、とてもよい色に恵まれているからね」
まぁまだお目にかかれていない景色もあるけれど、きっと美しく彩ってくれるだろう。
清浄で、純粋な気に満たされたこの空間。
この本丸は、期待するだけの価値がある。
「風流とは、季節の風情に富んだもののこと。雅を楽しめる、感覚の広い人間に育っておくれ」
首を傾げるべにには、まだわからなくてもいい。
人はじっくりと時間をかけて成長するもの。
ゆっくりじっくり、色々なことを教えてあげるよ。
「・・・なんか、べにって大分意思疎通ができるようになってきたと思わない?」
「ふむ、そうだな。歌仙の言葉を以前よりよく理解しているように見える」
「・・・そこは“昔のべにを知らない俺に何聞いてるんだ”ってツッこむところだよ」
「おや、そうだったのか?」
はっはっは、と、豪快ながらも優雅に笑う美しい男にため息をつく。
・・・なんでこんなの出てきちゃったんだか。
ゆっくりと散歩を楽しむ歌仙とべにをうらやましそうな目で見ながら、加州はこの男を鍛刀したときのことをぼんやりと思い出した。
資材が溜まってきたから、と。久しぶりに多くもなく、少なくもない量での鍛刀。
べにと思い切り遊んで式に力を注ぎ、元気一杯で炉に資材を突っ込んだ式たちに後を任せてその場を去った。
けれど三時間後、そろそろ出来る頃か、と顔を出せば、まだ終わる様子もなくせかせかと働き続ける式たち。
おや?と思ってあとどれくらいかかるのかと聞いたところ、まだ一時間はかかると返ってきて首を捻りつつひとまずその場を去った。
そしてさらに一時間後。
今度はべにを連れて迎えにいけば、やりきった!といわんばかりに達成感に溢れた顔の式たちと、一振りの太刀が。
これまで来た太刀が燭台切や一期一振だったから、その瞬間喜んだ。
戦力が来たぞ、と思ったのに。
「・・・なんで手間のかかるのが増えちゃったんだろ・・・」
「はっはっは。世話をされるのは好きだぞ」
「是非世話するほうを好きになってもらいたいね」
今さっき豪快に笑った男は、今度はいたずらっ子のように口元を隠してくすくすと笑う。
その姿が嫌味なほど絵になるものだから、天下五剣の名は伊達じゃないってか、とため息を吐いた。
「おーい歌仙。そろそろ部屋に戻るよー」
「あぁ、わかった」
そろそろ結構な時間になる。
べにの体力のことも考えて歌仙に声をかければ、締めとばかりに池に掛かった石橋をゆっくりと渡ってきた。
足元でちゃぽんと跳ねる鯉に気づいたべにが手を伸ばすのを支える歌仙に、不安定さはない。
「大分様になってきたね、」と差し出されたべにを受け取りながら褒めれば、「まぁね、」と照れたように笑う。
預けられる刀剣が増えて何よりだ、と練習がてらべにを縁側に座らせれば、こちらは未だ不安定さが残るべにの向こうから「ふむ、」と考えるような声が飛んできた。
「どれ、俺にも抱かせてくれんか?」
「「絶対に駄目」」
「・・・厳しいなぁ」
「文句言う前にまずはさっさと身体に慣れてもらいたいんだけど」
このジジイ、このあいだべにを抱き上げたときに落っことしそうになったのを忘れたのか。
しょぼん、と眉尻を下げる表情に騙される者はここにはいない。
そもそも、自分が歩くことすら覚束ないのに赤子を抱き上げようなんて、無謀にもほどがあるのだ。
「もうちょっとしたら薬研が迎えにくるだろうから、じいさんはそれまで待ってなよ」
「あいわかった」
「じいさん・・・」
「自称したんだから、それでいいでしょ?」
「まぁ、じじいよな」
へにょん、と笑う顔は幼くて、ころころ変わる表情はじじいというより子どもだ。
まぁ、薬研に介護・・・手を貸してもらう姿は、じじいと孫以外の何物でもないのだけど。
加州はバランスを崩してころりと横に倒れたべにを抱き上げ、歌仙は使用済みの湯飲みを持つ。
この荷物でそれなりに図体のある三日月を連れて行くのは危ないし、慣れた薬研に任せるのが得策だろう。
「じゃあまた後でね、」とべにの手をとって振れば、嬉しそうに手を振り返す。
―――その腕が関節が固まっているかのようにぎこちなかったのを、歌仙も加州も見逃さなかった。
湯飲みを返しに厨へ向かいながら、二振りそろって難しい顔をする。
「・・・留守番組になるとしても、もう少し身体に慣れてもらわないとねー」
「そうだね・・・やれやれ、ようやく部隊が整ったかと思ったのに」
「まーもう少し頑張るしかないでしょ」
はぁ、とそろってため息をついて、うつらうつらとし始めたべにをそっと抱きなおす。
この可愛い主の安全を確実に保障するためには、刀はできるだけ鍛刀に絞ったほうがいい。
紺野の言葉を鵜呑みにするわけではないが、保障が出来ない以上、可能性はできるだけ排除すべきだろう。
そのためには資材、資材、資材かぁ、とまたため息を付きそうになるのを、ぐっと飲み込んだ。
「ため息をつくと幸せが逃げるんだってさ」
「大丈夫、べにで補給されてるよ」
「それ言えてる!」
―――試しにと連れて行った合戦で、予想以上の戦果を残した三日月が第一部隊入りを果たすのは、そう遠くない話。
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