心を保つ、難しさ


『月島がサーブの時、ピンチサーバーで圭吾投入だ』


烏養君はそう言って、澤村君と共に体育館を後にした。
その表情には普段とは違った緊張が現れていて、反面教師のように深呼吸して自分の心臓を落ち着ける。
・・・大丈夫。足はしっかりしていたし、視線も定まっていた。医務室の方に診ていただいて、大事をとったほうがいいなら今日は無理に動かさなければいい。
大丈夫。烏野の皆は強いですから!
次烏野に点が入れば、月島君のサーブ。
清水さんに頼んで大野君を呼んでもらい、じわりと手ににじんでくる汗をゴシリと太ももで拭いた。
あと数点を守りきって次のセットに繋げば、皆ももう一度気持ちを集中させることができるはず。
澤村君が大黒柱なのは間違いないけれど、それ以外の皆だって、全部が全部澤村君に頼りきっているわけでは・・・


『ただ・・・その時、先生が圭吾が戦力にならないと思ったら、山口を使ってくれ。・・・この状況で逆転でセット獲られるのだけは避けたい』


烏養君が苦々しげにそう言っていた理由が、今、はっきりとわかった。


「・・・ごめんなさい。僕は、今の君が戦力になると判断できません」


土気色の顔。どこを見ているのかわからない、虚ろな視線。
顔を打ったのは大野君だったかと思うほど、立っているのが・・・意識があることが不思議なその様子に、これはダメだ、と一瞬で判断してしまった。


「・・・山口君を呼んでいただけますか。そして君は考えてください。何故僕が今、君にピンチサーバーを頼まなかったのか」


こんな言い方をすれば、大野君は傷つくだろう。
けれど、この様子では・・・遠まわしに言っても、理解できるのかも怪しい。
いや、そもそも・・・言葉が入っているのかすら。
言葉は何とか届いたのか、フラフラとおぼつかない足取りでウォームアップゾーンへと戻っていく大野君。
菅原君や山口君に様子を伺われているけれど、その山口君がこちらに来る様子はない。
・・・伝えることも、できませんか。


「清水さん」

「・・・はい」


山口君を呼ぶことは清水さんに任せて、戦況へと再び目を戻す。
サーブは和久南。狙ったのか偶然か、球はまだ若干身体の固い縁下君へ向かう。
緊張した面持ちながらもしっかりとセッターへ返したレシーブに、その緊張を払う意味も込めて「ナイスレシーブ!」と声を張り上げた。
バレーに限らず、スポーツ選手というものは、えてして強靭な肉体・精神力を問われるものだ。
特に、精神力はどんなスポーツでも重要。
ピンチに陥ったとき、自分で立ち直れるか。
失敗にくじけず、再び前を向けるか。
負けを受け入れ、次へと一歩踏み出すことができるか。
田中君のように。東峰君のように。日向君と、影山君のように。
彼らは、見事な“選手”足りえます、が・・・


「・・・彼は、どうにもメンタルが心配になりますね」


オドオドと、まるで怒られる子どものように近付いてきた山口君に交代の旨を伝えて、ナンバープレートを渡してもらう。
まるで大野君のように背中を丸めてそれを掲げる山口君の背中を見送って、ぽつりと呟いた。
どんなピンチでも、サーブを打つことだけに集中できるのであれば、まるで揺らがない彼の心。
それはまるで砂の城に建てられた一本の旗のようで、他からの刺激に、あまりにも弱い。
あの子がピンチサーバーとして強いのは、“点を入れる”・・・それだけに集中できるから。
歳月と共にじっくり丁寧に積み上げてきたその城は、ほんの少しのきっかけでいともたやすく崩れ去ってしまう。


「・・・(こういった“ピンチ”にも高パフォーマンスを示していただければ、この上ない頼もしさを感じるのですが)」


精神的にも未成熟な高校生に、それを求めるのは酷と言うものか。
そしてそれは、―――彼にも同じこと。


「・・・頑張ってください!山口君!」











倒れた主将を見て、大野が冷静でいられるはずがないことは分かっていた。
だから、ベンチに呼ばれた大野を見て、驚いた。
フラフラと、付き添いが必要なんじゃないかってくらいおぼつかない足取りで遠ざかる13を見て、一瞬。


“大野が使えないなら、俺が”


―――そう考えた瞬間、心臓が痛いくらいに跳ね上がった。

思わず心臓の辺りをぎゅっと握れば、スガさんが「大丈夫か?」と聞いてくれて、慌てて「大丈夫です」と手を下ろす。

・・・俺、打てるかな。

練習は、した。嫌になるくらい、何度も、何度も。
でも、・・・試合は、初めてだし、こんな、主将が居ない場面で、なんて・・・!


「―――・・・」


ふと蘇ったのは、エンドラインに立つ、大野の姿。
息を吸って、吐いて。心を落ち着けて前を見据える大野の目に、失敗に怯える色は見られない。


―――俺は、あんなふうになりたいって、思ってたのに。


コートからベンチに視線を移せば、武田先生の前でただ立ち尽くすだけの大野。
・・・俺の知ってる“かっこいい大野”は、あれじゃない。


「・・・大野って、いろんな“ピンチ”に遭遇してるんじゃなかったのかな・・・」

「え?」

「ア、イエ・・・」


理想と現実の差に思わず呟けば、気付いたスガさんが振り返ってきて慌てて手を振る。
なんでもないです、と言っても「なんかあったか?」と気にしてくれる様子に、少し考えてからぽつりと零した。


「・・・なんか、昨日とかも・・・影山のこと、すごいパニクってたけど。割とエンドラインに立てばいつもどおり打てたんじゃないかな、って」

「あー・・・確かに。成年でずっとやってたんなら、そういう場面もあっただろうしな」


勝手なイメージだけど、俺たちより身体がでかい分、怪我も大きそう、とか。
町民バレーで久しぶりに運動したおじさんが、アキレス腱を切って救急車で運ばれたとかも、聞かない話じゃないし。


「それと比べて・・・いや、確かに主将のアレは心配ですけど・・・なんか、いつも以上にヤバそうっていうか」

「・・・まぁ、どう見てもサーブ打てる状態じゃねーべな」


武田先生との話が終わったのか、またフラフラと戻ってきた大野は顔面蒼白で、武田先生どころか、清水先輩まで心配そうに見送っている。
下手したら足をもつれさせてコートに倒れこんでしまいそうな様子に、腕を引いてウォームアップゾーンに引き込んだ。


「僕・・・く・・・ご、ご・・・な、さ・・・・・・め、った・・・な、」

「大野・・・?・・・おい、お前ホント大丈夫?」

「大野・・・えっと、その・・・大丈夫だって!主将普通に歩いてたし、まずはこのセット獲れば」

「山口?」

「ハイ??」

「清水先輩が呼んでる」

「ヒェッ!?」


ツッキーや先輩たちに励ましてもらって、コートに入る。
ボールを受け取って立ったのは、さっきイメージした、大野の立ち位置。
重ねるように立っても、それとは全く被りそうになくて。

・・・なぁ、大野教えてくれよ。

なんでお前はこんな緊張感の中、普通に打てるんだ?
失敗したら、即失点。自分のミスが、そのまま相手の得点。
なんでそんなプレッシャーに、耐えられるんだよ?

ピーッ

魂の抜けたような大野を思わず縋るような目でチラリと見た瞬間、追い立てるようなホイッスルの音が耳を劈いて、ビクッと身体が跳ね上がる。
打たなきゃ。入れなきゃ!

前、みたいには・・・!












慌てて投げたボールは、・・・全然、予定通りに上がってはくれなかった。


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