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「やぁ、空翠徠」
楽しげな声音で私の名前を呼んだ彼に、私はゆっくりと振り向く。
変わらない黒スーツを着込んで近づいてくる彼。隣には、誰もいない。
郁織は一緒じゃないのか、と少しだけ安心してこんばんは、とだけ言っておく。
他のことをいう必要はなさそうだから。
彼の手にはすでに……今日の任務の資料が握られている。私と一緒の、任務だ。
偶然にも今日も満月……神様の悪戯か何かか。
スッと足を違う方向に向けて歩き出せば彼が隣で歩き始めるのがわかる。
足の長さの違いなのか、雲雀さんの歩く速さは早かった。
いくら私は身長が低い方でも…こんなに違うと悔しい。
しかも雲雀さん、私を女と思ってないのかまったく歩調を合わせる気がないみたいだ。
別に思って欲しいわけじゃないけど。
リボーンでさえ…いや、あの彼の場合自然に合わせているんだった。
何分、モテモテなものだから。愛人数え切れないほどいるし。
「今日は黒いスーツなんだね」
「…そういう雲雀さんもでしょう」
「パーティーの時は色物のスーツを着てこいって綱吉がうるさくてね」
だから妥協して深い藍色のスーツ着てただけ。
そう言う雲雀さんにそうですか、と興味なさげに返した。…実際興味なし。
用意された車に乗り込めば雲雀さんは私の隣に座った。
比較的広い車内だから前に座ればいいのに…すごく、近い。
「ねぇ、」
「……ッ…」
ふっ、と雲雀さんの熱い吐息が耳にかかって、囁くような状態になる。
いつの間にか腰には手が絡みついているし、嫌でも心臓が五月蠅くなった。
運転手は後ろを見ていないのか私達の状態に気付いてない。
気付け!静かなことを不自然に思って、気付いてよ!
……なんて心の中で言っても意味はない。
できるだけ無表情を装って雲雀さんをゆっくり見上げた。
綺麗な顔があまりにも近くて、表情が変わりそうだったけど、耐えて。
「何ですか?」
「最初に言っておくよ。…僕は君が欲しい」
「……っ、あ、なたには…郁織がいます」
「そうだね。それでも、君に惹かれてるんだ……翠徠」
熱い、熱を帯びた視線が私を捉えて離さない。
あぁ、私に、なんて応えろ、と?
『私も貴方に惹かれています』?
馬鹿なこと言わないで。絶対にそんなこと言えない。
それに惹かれています、じゃない。惹かれていました、だ。
そう……過去形。もう貴方のことは10年前に忘れた。
(本当に?本当に、そうなの?)(うるさいうるさいうるさい!)
「…友人の恋人を取るほど堕ちてはいません」
「本当に君は郁織のことを友人だと思っているの?」
「…、……えぇ、もちろん」
「嘘つき」
ドクリ、と胸が波打つ。
低く、低く、囁かれた一言に、私は小さな快楽が走った。
たった一言なのに力が抜けて背筋に電気が走ったみたいな感覚に陥る。
甘く…低く、毒のように囁く、彼。
そっと顎に手を添えられて、上を向かされる。
(いつの間にか、車は止まっていて、)
(運転手は、消えていた)
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