月末の怒涛の残業がやっと終わり、帰宅するのと同時にケトルに水を入れる。時計はとうに21時を回っていたが、これでしばらくは残業から逃れられると思うといくらか気分が軽い。お気に入りのマグにインスタントコーヒーを入れ終わるといいタイミングでお湯が沸き、ダイニングはコーヒーの香りでいっぱいになる。その香りを吸い込むのと玄関からガチャリと鍵を回す音が聞こえてきたのは同時だった。
「あ…、えっと、おかえりなさい」
「うす。美雨さんも今帰ってきたんすか?」
「うん。でも今日で月末の仕事が終わったから気分はいいよ」
「お疲れ様っす」
数日ぶりに見た同居人は部活終りなのかジャージに大きなスポーツバックを下げた格好で軽く頭を下げた。
そんな影山くんと暮らし始めて一ヶ月。私が思っていたよりも遥かに平和に時間は過ぎてゆく。当初は年下と言えども相手は男性なので、異性として意識すると言うよりも警戒しながら生活をしていたのだが、入居当時に言っていたように影山くんはほとんどアパートを空けていた。更に社会人と部活をしている学生では生活のリズムが違うのは初めから承知の上だったので、私は仕事に、影山くんは学校にバレーに忙しく数日顔を合わせない日もざらでも特に気にすることもなかった。
それでもこうして顔を合わせることがあればある程度の会話はある。可もなく不可もなく、これと言って問題もないので私の警戒心はこの一ヶ月でだいぶ薄らいできた。
「コーヒー飲む?インスタントだけど」
「頂きます。美雨さんってほんとコーヒーすきっすよね」
「すきっていうか、無意識に手がのびちゃう」
そう言って笑いながらコーヒーを入れたマグを差し出すと「ありがとうございます」としっかりしたお礼が返って来る。運動部だからか、影山くんはとてもはっきりした物言いをするのでその分、余計な気を遣わなくていいのだということをこの一カ月で学習した。
引越し当初の歯に衣着せぬ物言いもさることながら、同居を始めた次の日に何の躊躇いもなくいきなり「美雨さん」と名字ではなく名前で私を呼び初め、「名前の響きの方がすきなんで。いいじゃないですか美雨って響き」と言い放って私を挙動不審にさせたりした。しかし一度「影山くんはこういう人だ」と割り切ってしまえば妙に気を揉むことも少なくなり、自分も楽になることを知ったので徐々に実践していこうとしている最中なのである。
「美雨さん、家にいるといつもコーヒー飲んでますもんね」
「えっ、なんで知ってるの?」
コーヒーの入ったマグを受け取りながら特に気にした風もなく話す影山くんの言葉にびっくりして思わずその顔を見つめた。私は何かにつけてコーヒーを飲む人間なので、所謂カフェイン中毒のようなものだと自分でも思っている。しかしこれまでの生活で影山くんとは顔を合わせることはおろか、彼の前でコーヒーを飲むなんて片手で数える程度も無かったはずなので、その口から「いつも」という常日頃を表す言葉が付いて出てきたのに驚いた。
「俺が帰って来るとダイニングはいつもコーヒーの香りがしてるんすよ。だから美雨さんがコーヒー淹れて飲んだんだなってすぐ分かるんです」
「あぁ、なるほどね」
そう言ってマグに口を付ける影山くんの話を聞いて合点がいった。自分ではコーヒーを飲むことは毎日の事なので慣れ親しんだ香りでも、そうでない人からすれば嗅ぎなれない香りなのだろう。そう納得してコーヒーを飲もうと私もマグを口に運ぶ。次の言葉に先ほど以上に私を驚かす言葉が来るなんて考えもせずに。
「だから会わなくても美雨さんが家にいるのもすぐ分かるんですよ。コーヒーの香りがしたら、美雨さんがいるのが分かってなんか安心するんで」
「え」
「自分が帰る家に誰かがいてくれるのっていいっすよね」
そう何とはなしに言い放つ影山くんは茶化すでもなくかといって爽やかな笑顔でもなく、至極真面目な顔をしていて、驚きすぎた私は二の句が継げなかった。ここ一ヶ月の影山くんを見る限りその言葉を意味深に使っているとは思えないが、警戒心とはまた別の意味でなんとなく意識してしまっている自分が情けない。そんな私に「どうしたんすか?」とこてんと首を傾げる影山くんを見て、私は未だに同居人の性質を掴みかねているのであった。
20140830
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