(すげーイイにおい…)
夕方には練習の終わる休日の部活の帰り道。汗を吸いに吸った練習着たちを詰めたスポーツバッグを背負って歩く帰路はいい感じに日が暮れていてきれいな夕焼けが行きかう人々に長い影を作っていた。そんな中でふわりと漂うやさしい香り。
(晩飯のにおい…)
どこからともなく漂ってくるにおいはどうしても実家の食卓を連想させてしまう。部活を始めてからはあまり居合わせる事は少なくなってしまったが、夕方になると台所から漂ってくるカレーのにおいに心が躍ったものだ。今は便利な時代でコンビニは24時間営業であるし大学には学生食堂もあるのでバランスや出費を考えなければ食事には困らない。コンビニ飯はおいしいし学食も週替わりのメニューがあり食べ飽きると言う事はあまりない。しかしふとした瞬間に、例えばこんな風に部活帰りに家庭的な所謂おふくろの味的な夕飯のにおいを嗅いでしまった日には実家の居間で食べていた食事が妙に恋しくなる時があるのだ。
(どっかの家では今日はカレーなんだな)
そんな事を思っているうちにこれまたどこからか自分の好物のにおいが漂ってくる。カレールーとスパイスの香りは部活後の空腹には物凄い毒である。その香りだけで急に胃の中が空っぽになったような感覚になるのだから恐ろしい。
(…学食のカレー食ってくればよかった)
大体部活終りには一人暮らしの連中がぽろぽろ集まって学食に直行することもあるのだが今日はそんな集まりも無く、さして学食で食事するほど空腹では無かったので珍しく直帰してみればこれだ。こんなに中途半端な空腹になるくらいならさっさと学食で済ますのだったと後悔する。しかし幸か不幸かアパートはもう目と鼻の先であるし、とりあえず今日は買い置きのカップラーメンで済まそうかと思いながらアパートの階段を上った。
「あ、おかえり!」
ガチャリと開けたドアの向こうはいつもの見慣れたキッチンであったが、いつものこの時間に見るような薄暗い場所ではなく明かりが点いていて、自分を出迎えてくれる人がいた。続けざまにキッチン借りてるねーとエプロンをした美雨さんは俺に声を掛けた後、手に持った小皿で火にかかった鍋の中身の味見をしていた。帰る場所に明かりが点いていた事、おかえりと言ってくれる人がいた事、しかもそれがエプロンをした美雨さんだった事。それぞれ一人暮らしでは叶わないような出来事に面喰って数秒硬直しそうになったがそれを上回る現実に意図せず俺の心は高揚していた。
「カっ…カレ―…!!」
何故なら美雨さんが味を見ている鍋の中身はこの帰路でずっと想いを馳せていたカレーそのものだったからだ。ドアを開けた瞬間に広がる独特の香りに帰り道で感じたにおいはもしかしたらここの換気扇から流れてきたものだったのかと思う。とにかくキッチンに充満するその香りは晩飯をカップ麺で済ますつもりだった俺の空腹と食欲を一瞬にしてカレー一色に変換させた。
「影山くんカレーすきなの?」
「す、…すきっす!一番すきっす!」
「よかったら食べる?」
「え…!」
「もう少しでご飯炊けるから少しだけ待っててね」
「あっ…えっと、」
部活後の空腹感から好物のカレーを目の前にして思わずハイテンションになってしまったが、ふと我に返る。これでは夕食を食わせてくれとせがんでいるようなものではないか。美雨さんも自分の食事を作っていたのであって、元から俺の分を作っている訳も無いのにあんな風にカレーがすきだと言われたら体裁上食べるかと聞くのが道理だろう。そこまで気が回らず食欲のままに返事をした自分が今更恥ずかしくなってきた。
「あ、ごめん!やっぱりあたしの手作りじゃ食べるの不安だよね…」
「いや、そんなんじゃないっす!」
戸惑った俺の態度が勘違いさせたんだろう。余計なことしてごねんねと困ったように笑う美雨さんを見て焦って否定する。このままでは余計な誤解を与えかねない。恥ずかしくてもここは自分の気持ちを正直に言わなければ。
「美雨さんのカレーすっげぇ食いたいんすけど、…なんか晩飯ねだってるみたいじゃないスか…。元々美雨さんが自分の為に作ったもん貰うのは悪いと思って…」
「なーんだそう言う事か〜。安心した」
えへへと眉を下げて実年齢よりも若く見えるいつもの笑顔の美雨さんを見てほっとする。やっぱり美雨さんは笑顔が似合う。その笑顔や好意を無下にしてしまうと所だったと思うと妙に落ち着かない気持ちになった。
「変な態度取ってすんません…」
「ううん。あたし料理は一度に多く作るのが癖でさ。影山くんさえよければ食べてよ。あり合わせだけどこれからスープも作るし、その間にお風呂入ってきなよ」
「あ、いや。そこまでしてもらうのは…。俺も何か手伝います」
「影山くん部活帰りでしょ?気遣わなくていいから汗流しておいで」
そうしてにこにことした美雨さんの笑顔を見せられ、俺は成す術も無く言われるままに浴室に向かった。
▼
「……」
「あの…影山くん?大丈夫?無言だとちょっと心配にな、」
「美味いっす…!!」
「あ、よかった〜」
美雨さんが作ってくれたカレーは本当に美味かった。きっと味にうるさい奴が見たらなんてことない可も無く不可も無いフツ―の家庭的なカレーなのだろう。けれど部活終りの空腹感に自分の好物ということ、極めつけは作りたてという自分では食べる事の出来ない食事と言う事が何より美味しさを感じさせた。プラ容器に入った少なめのものだったり大量に作り置きされたものではない、本当に作りたてのカレーとスープ。電子レンジで温めたものではないこれまた炊き立てのかすかに甘い香りのするごはん。それに自分ではない誰かと家で一緒に食事としているという事がとても嬉しく特別なものに感じられた。
「ほんとすげぇ美味いっす!美雨さん料理上手っスね」
「あはは大袈裟だよ〜。フツ―だよフツ―」
「フツ―でも俺にとってはすげぇうまいです。手作りの家庭的な味で、実家の飯を思い出させるっていうか」
「あ〜なるほどね!お袋の味的な?」
「はい。それに一人暮らししてからいつもコンビニとか学食で食ってるから、こんな風に手作りのもんを家で誰かと食べるってこと無かったんで…」
「……」
「だからこうして美雨さんが作ってくれたモン食わしてもらってすっげー嬉しいです。ありがとうございます」
「あのさ、影山くん」
すると美雨さんは何やら神妙な面持ちで俺の方を見る。その顔は僅かだが何となく思いつめたような表情をしていて、何かまずい事を言ってしまったのかと焦ってしまう。もしかしたら先程のように意図せず誤解をさせてしまうようなことを言ってしまったのだろうか。
「ひとつ相談があるんだけど」
そう言うと美雨さんはおもむろに口を開いた。
← →
|