「――はい。ええ、本当にありがとうございました。失礼します」
通話を終えて電源ボタンで液晶画面を落とす。ふう、と自分の口から吐息が漏れた。しかしそれは自分で思うよりも随分軽く、溜め息と呼ぶには似つかわしくないものだったので、存外私の心は落ち着いているらしい。とても不思議なことだが人間とは環境に順応する生き物だということを身を持って実感した。
(今更不安になるな。自分で決めたんだから…)
いつものようにコーヒーの準備をしながら、諭すように声を出して自分を励ましてみる。すると嗅ぎなれた香りがキッチンを満たす頃には不安に関するエトセトラは殆ど消えてしまったようだった。
電話の相手は私が影山くんと同居するきっかけとなった不動産からだった。そこからの電話となれば要件は言わずもがな。私が希望する物件が見つかったというありがたい報告で、ついさっき私はその返事をしたばかりだった。そして、わたしはそれを影山くんに伝えなければならないのだ。
「影山くん、寝ちゃってるかな…」
いつも以上に眉間に皺を寄せて大人しく布団にもぐっているであろう同居人のことを考えながら私は残りのコーヒーを飲みほした。
「影山くん?」
「はい」
一応眠っていることも考慮して控えめにノックをしてみたものの、ドアを開けるとベッドに横になったままテレビを見ている影山くんと目が合った。熱のせいかその目は何となくとろんとしているようだが先ほどと比べれば顔色は随分良くなっていて具合は悪くなさそうだ。テレビからは芸人たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「ちょっといいかな」
これからの会話の内容が全く見当がつかないと言うように影山くんは可愛らしく首を傾げた。
▼
「ってことは、つまり…」
「そう言うことでお願いしたいんだけど…。どうでしょうか…?」
「勿論っす!寧ろありがたいっす!」
前のめりな勢いで肯定してくれた影山くんを見て私は心底安心した。もし、言葉にしなくとも、少しでも面倒くさそうな表情だったり怪訝そうな顔をされたらすぐに考え直そうと思っていたが、幸いそれは杞憂に終わった。
「美雨さんが居てくれるほうが安心するんで、すげぇ嬉しいっす」
「へへ…ありがと」
結論から言うと、私は新居物件の申し入れを断った。元はと言えば不動産ミスであったものの、担当者がきっと死に物狂いで探してくれたのであろう物件を断るのはやっぱり申し訳なかった。不動産から伝えられた物件は立地や家賃など条件も申し分なかったが、色々を逡巡した結果、この選択をした。なぜなら、今の私にはもう引っ越をする理由がもうなかったのだ。元々このアパートの立地は申し分ないので近所に引っ越すのはなんだか気が引けてしまった。そして以前は最大の問題であった影山くんとの同居は私の予測を裏切り、問題無いどころか寧ろ快適だった。先日は目覚まし時計の事件があったものの、この数ヶ月一緒に暮らしてみて、人間的に相性が合わないだとか部屋の汚れが気になったりだとか不安に思っていた事もなかった。さらに家賃が半額となればもう文句のつけどころが無い。
そんな訳で影山くんとならこれからも上手くやっていけると思い、彼との同居を続ける事にした訳だ。
「でもよかった。影山くんにそう言ってもらえて安心したよ」
「俺は最初から歓迎でしたよ、同居」
「そう言えば影山くん、立地以外興味ないって言ってたもんね〜」
初めて影山くんに会った引っ越しの日、至極真面目な顔でそう言い放った彼の顔を思い出す。当時はその無頓着さから数ヶ月と言えど同居するのに上手くやっていけるのか不安ばかり募っていた。しかし蓋を開けてみればこれだ。人と人の出会いとは本当に不思議なものである、そうしみじみ感慨に耽っていると、向かい側でなにやらうーんと考え込んでいる影山くん。どうかしたの、と尋ねる前に彼はこう言った。
「今はそれだけじゃ無いっすけどね」
えっ?と一瞬その言葉の意味が分からず首を傾げると、ふと我に返ったように影山くんは「あ、えっと、今のはっ!」とひとり慌てふためいていた。あぁ、同居していれば家賃が半額だしおいしいって事かと私が納得する頃にはその心なしか顔が赤くなっていた。良く考えれば、まだ病み上がりの影山くんに急いでする話では無かったのかもしれない。自分のせいでまた影山くんの熱が上がったらと思うと急に不安になってきた。
「ごめんね影山くん、病み上がりなのに無理させちゃって!」
「いや、あの、大丈夫っす!」
「大丈夫じゃないよ!顔赤いし熱あるよ!」
「ちょ、美雨さん近い…!」
「やっぱり熱い。待ってて今アイスノン持ってくるから!」
そう言って私はアイスノンを取りに影山くんの部屋を後にした。そこに取り残された彼が「あ〜くっそ!」と意味のない悪態を吐きぶっすっとした顔で照れていたことなんて、私は知る由も無かった。
← →
|