ふと目を開けて頭だけを左側の窓に視線を向けると、ベッドにうつ伏せになっている自分がこちらを見つめ返してきた。今夜は男子バレーの世界大会があるからと早めに帰宅して少しだけ仮眠しようかと横になったつもりが、どうやらぐっすり眠ってしまったらしい。きっともう中継は終わっているだろう。
(今…何時だ…)
寝ぼけ眼と覚醒仕切らないぼんやりと霞がかかったような思考でいつもの位置にある目覚まし時計を掴もうと右手を意識した瞬間――いつもの位置にあるはずの物ではない感触が右手に伝わってきた。
(なん――)
そこに伝わってきたのは、いつも少し右手を伸ばせば届く目覚まし時計の固くて少し冷たい感触ではなく、細くてあたたかいやわらかなもの。
(……美雨さん!?)
ぺたんと床に座り込み俺のベッドに頭を預けているのは紛れもなく美雨さんだった。その姿はいつも見かけるシンプルなブラウスの仕事着ではなく、部屋着なのか少し首元のゆるい七分袖のTシャツにゆったりしたスエット。そのリラックスした格好に包まれた肩は小さく上下していて、その様子を見るとどうやら眠っているらしい。そして何故か自分は美雨さんの手首を握っていて、今の今まで眠っていたらしいという事だけは、とりあえずこの状況から察することが出来た。しかし何故今こんな状況になっているのかは全く見当がつかず、混乱した思考を落ち着かせるのには情報が足りなすぎる。きっと美雨さんはこうなるまでの経緯を知っているに違いないが、わずかに聞こえてくる小さな寝息が俺をゆっくり落ち着かせていった。
(――そういえば、こんなに近くで見るのは初めてかもしれない)
美雨さんと暮らし始めて既に数ヶ月。生活リズムは違うが顔を合わせば挨拶はするし、タイミングが合えばダイニングで一緒にコーヒーを飲んだりすることもある。それでもそれはあくまでも同居人として、不快な思いをさせないようにお互いに気を遣いながらの距離を保っていた。どれだけ同じ空間に居たとしても、俺たちの間には人ひとり分の距離があって、それ以上近くでお互いを視界に入れることは無かった。
だから今こんな目と鼻の先にいる美雨さんは、何というか、俺の視覚にはとても新鮮だった。
(髪、きれいだな…)
自分の美雨さんも大きく括れば同じ人間のはずなのにどうしてこんなに違うものに見えるのだろうか。さらさらした髪の毛にその隙間から見える睫毛。窓から差し込む街灯の灯りに照らされた白い肌に華奢な手首と指先。首元から僅かに覗く鎖骨さえも自分のものとは作りが違うのではないかと錯覚してしまいようになる。
(――女のひと、なんだもんな。美雨さんは…)
これまでの人生で俺の優先順位はほとんどをバレーが占めていたが、別に異性に関心がないとか恋愛に憧れがないとかそういう訳ではなく、年齢相応に興味はあると思う。たぶん。告白されたことも記憶に残るくらいは覚えがあるし、自分に世間で言う“彼氏”という肩書がついたこともあった。しかしバレーとその肩書きのどちらが大切なのかと問われれば迷わずバレーと答える事が出来る程度の経験ばかりで、それらの記憶を果たして恋愛と呼んでいいのかは、正直あやしいところだと思う。バレーとなれば意識しなくとも脳は働き動く身体がそれらの事に関してはどこまでも受動的になってしまい、積極的に行動したためしがない。
――だから、無意識のうちに自分の手のひらが動いたことに気付けなかったのかもしれない。
「俺、何してっ…!?」
我に返った時はすでに自分の指先から髪の毛はすり抜けてゆっくりと元の位置に戻った後だった。無意識のうちに#葵#さんの髪を梳いていた自分の手を見遣る。幸い#葵美雨さんは今も小さな寝息をたてていて起こしてしまうことは無かったが、今自分のしたことが信じられなくて、思わず喉がごくりと鳴った。
(こんなこと、今まで無かった…)
これまで感じた事のない動揺と混乱で落ち着きのない心臓の音は真夜中の部屋では妙に耳障りに聞こえる。それが更に俺の動揺を煽るようで、俺は暫くの間固まっていた。
20141023
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