家に帰れば蓮子の両親は温かく迎えてくれた。そういえば、ばたばたと忙しなく毎日が過ぎて『特務司書』という職に就いてから帰っていなかったな、と蓮子は思う。
 自分の部屋に荷物を置いて、蓮子は小学生の頃から使っていた机を見た。お気に入りの本や雑誌、大学の教科書、就職のために買い揃えていた参考書。そんなものを眺めて、長い間書店に足を運んでいないことに気づく。
 ――『あそこ』には本がたくさんあった。だから、書店に行かなくとも埋もれる程の本を読めた。この家にも昔は山ほど詩集があった。お小遣いが貯まるたびに、蓮子は詩集を買いに走ったからだ。でも、もうその本のほとんどがこの部屋にはない。昔に捨ててしまった。
 明日は雑誌でも買いに行くか、と蓮子は目を伏せる。お風呂が空いたよ、と両親が蓮子に声をかけた。

その次の日、蓮子は書店にいた。最近のはやりの服をチェックするためだ。雑誌を一通り吟味していたはずなのに、気づいたら蓮子は詩集のコーナーにいた。狭いながら、詩集や短歌の本が並べられた本棚を、蓮子はじっと見る。金子みすゞはあそこにいないな、とか、谷川俊太郎も時代が違えばいたのかもしれない、と過ぎった言葉に蓮子は首を左右に振った。
「立川さん?」
 そう後ろから声がかかって蓮子は振り返る。そこにいたのは昨日いた男性だ。書店員用のエプロンを身につけた彼は首を傾げていた。つけられた名札には大槌、と文字が書かれている。そういえば、槌、と呼ばれていたっけと蓮子は首を傾げた。
「昨日の?」
「ああ、良かった、間違えたかと思った」
 そう緩やかに笑った彼の手元には本がある。蓮子がちらりと見れば最近の作家の詩集らしい。気になってじっと見れば、彼は首を傾げた。
「詩集、好きなの?」
 そうのんびりした口調で尋ねた大槌に、蓮子は少し迷う。大槌はそれに何も言わず、本を並べ始める。
「凄いね、小説も好きって。僕なんか小説は目がチカチカしてしまって……」
「目がチカチカする?」
「いろんな色が溢れ過ぎてて集中できないんだ」
 当たり前のように告げた大槌に、蓮子は首を傾げるしかなかった。色とは。描写のことを指すならば「チカチカする」に反するから違うだろう。彼は蓮子の反応に笑うと一冊の書籍を手に取る。金子みすゞと書かれた名前をなぞって、彼は口を開いた。
「柿色、黄色、淡い水色、灰色、萌黄色」
 蓮子はそれが何を指すかわからずに、じっと手元を見る。そうしてようやく、大槌の言いたいことを理解した。
「文字に色が見えるの?」
「うん」
「へえ、貴方も文字に選ばれた人なんだ」
 今度は大槌が首を傾げた為に、蓮子は言葉を探す。「彼と同じような人」は五人いる司書の中に一人だけいる。「本に選ばれた」「言葉に選ばれた」とは一般職員が彼をさして告げていた言葉だ。不思議に思った蓮子が本人に尋ねれば本人は苦笑いして、大層なものではないよ、と笑っていたが。その話題が出た時、猫が何か言っていた気がする。
 ――それを専門用語で言えば――
「共感覚?」
「ああ、知ってたんだね。よかった。これ説明するのが面倒なんだよ」
 またのほほんと大槌が笑う。
「貴方は全ての文字に色が見えるの?」
「そうなんだ」
「そりゃあ、確かに小説は目がチカチカしそう」
 文字が詰められた小説は読書好きにはいいが、彼にとっては苦痛だろう。
「だから、詩が好き?」
「いいや、詩は言葉の並びも素敵だし、色の並びがまた素敵なんだよ」
 大槌の言葉に、この人こそ司書に向いているのでは、と蓮子は思う。自分のような欺いている人間よりも、ずっと。
「特務司書に応募しなかったの?」
「特務……? あぁ、一斉試験があった奴だね。店長に勧められたけれど、年齢制限を超えてたから……確かあれ、公務員扱いだから二十六歳以上はダメだったんだよ……ん? ってことは、君は特務司書かい?」
 大槌がそう首を傾げた。
「えーと、まぁ、」
「特務司書がどうしてこんな書店に? おやすみ?」
 嫌なことがあって逃げてきました、とは言えないな、と思う。そっと蓮子は目を逸らしたが、大槌はもう蓮子ではなく本棚を見ていて気づいていないのだろう。
「室生犀星」
「え?」
「室生犀星と三好達治。僕の好きな詩人なんだ」
 その二人はまだ図書館にいない文豪だ。徐々に文豪は増えているから、いつかはやってくるかもしれないが。そっと大槌が作家別に並べられた詩人のま行を指す。そこに二人の名を冠した本はない。
「ないでしょ? 僕のお気に入りだから、ここに並べたいのだけれど」
「え、なんで?」
「わからないけれど、ここ最近古い作家の本がなくなっていてね。発注をかけてもダメなんだ」
 その言葉に、蓮子ははっとした。

 ――侵蝕が進んでる?
 あそこでは、色々な分野をそれぞれがカバーしている。特に量の多い純文学と大衆小説を按司が。童話を菜乃花の会派が。海野は会派の関係だろう、純文学と短歌や俳句を。棋院は全てを。
 詩は蓮子の分野だ。担当分野を決める時、詩が好きだから、と言ったのを覚えている。
「これって、特務司書と関係してるの?」
 おそらくは、そうである。何も返さない蓮子に、大槌が首をかしげる。
「何かあった?」
「――ちょっとだけ、仕事で色々あって」
「色々?」
 大槌の言葉に、蓮子は小さくうなずいた。
「あの仕事をしていたから、彼氏に浮気されたし振られたし、変わった人扱いされるし。なりたくてなったわけじゃないのに」
「それは違うと思うよ」
 モゴモゴと喋った蓮子に、大槌が迷いなくはっきりと言った。
「それは仕事のせいじゃない。仕事のせいにしてはいけない」
「でも、」
「君がその仕事についた以上、何か理由があるんだ。仕事に没頭しすぎて連絡が取れなくなって別れるなんてよくある話だよ。ただ、自分にとって相手は仕事よりも大切ではない存在で、相手にとっても大切だったけれど浮気をするぐらいには大切じゃなかった。それだけだよ」
 酷く耳がいたい話だ。
「変わった人云々は僕から言えば何も言えないな。僕が変わってるっていわれるからね。でも、僕からすれば君は普通の人だよ」
「普通の人?」
 蓮子がそう尋ねれば、大槌は「うん」とうなずく。蓮子はもう一度言葉をつむぐ。
「――詩集が好きなのに?」
「君、それ、詩集が好きな人を敵に回すよ」
「図書館の詩集を全部読んでも、普通の人?」
「全部? すごいな、それは筋金入りだ」
 そう先程とは打って変わってケラケラと笑った大槌は口を開く。
「詩集好きに悪い人はいないさ。僕の友達にも詩人がいるけど、悪い人じゃない。君は変わってない。ただ、詩が好きなだけな普通の人。ただ、文学が好きなだけ。だから、なれたんじゃないかな、特務司書に」
 あまりにも緩やかに、それでも強くいうものだから、蓮子は目を瞬いて――笑った。
「あれ、おかしなこと言ったかな?」
「いえ、普通の人だって言われたのが、可笑しくって」
「あ、ごめん、失礼だったね」
「いや、いいんです。普通の人になりたかったから」
 蓮子はそう言って目元を拭った。
「そっかぁ、普通の人かぁ」
 そう呟いた蓮子に、大槌が目を瞬く。蓮子はもう一度詩の本がたくさん並んだ本棚を眺めた。
「最近の詩集でオススメは?」
  大槌は少し考えて本を指差した。
「おすすめはたくさんあるよ。独特だけれど、蜂飼耳とかはどうかな。何処か赤黒く残酷なのが許容できるならね」

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