九
目当てであったはずの雑誌ではなく、何冊かの詩集を買って帰れば蓮子の出迎えた母親は「貴方は本当に昔から詩集が好きね」と笑った。いつもなら「違う」と蓮子は否定していたが、今日は違う。
「・・・・・・うん、好き」
そう頷けば、母親は少し目を開いて、だろうと思った、と告げた。蓮子が少し安堵しながら靴を脱いでいると、玄関には家族の物ではない靴が並んでいる事に気づく。
「誰か来てる?」
「貴女の職場の人がね」
そう笑った母親に、蓮子は本を落とした。貴女の部屋にいるわよ、だなんて告げた母親は「かっこいい人ね」と笑った。蓮子はもう一度靴を見る。よく見れば、靴は見覚えがあった。階段を下りる音がする。
「おかえり、司書さん」
そう笑ったのは中野重治である。随分顔色が良くなったみたいでよかったよ。そう告げた彼に、蓮子は言葉をどう返すか迷う。それさえも見越したように、中野重治は蓮子に「すこし話したいことがあるんだけれど、いいかな?」と穏やかに告げた。母親がクスクスとわらう。
「お母さん、買い物に行ってくるわね」
そう自分と入れ違いに出て行った母親を蓮子は少し恨めしく思う。気を遣ってくれているのだろうけれど。とりあえず玄関で話すのはどうかと思い、蓮子はリビングへと中野を案内する。
「――何か御用ですか?」
怒られるのだろうか。そう伺いながら、蓮子は中野重治をみる。彼は「君と話をしたくて」と告げる。
「君が司書で僕が助手であるには、もっと腹を割って話した方がいいかなって」
「でも、」
「うん、わかってる。僕が君を知りたいだけだよ。たった一ヶ月と少しでさよならなんて残念な気がするから。君は本が好きかい?」
「・・・・・・」
「大丈夫、僕は否定なんてしないよ。好きなんだろう?」
「うん」
「特にどういう本が好きなの?」
「詩集、とか」
ぽつり、と蓮子がつぶやいた。蓮子の言葉に中野が苦笑いした。
「プロレタリア文学は興味ないのかぁ」
「興味ないわけじゃないよ、難しそうで手が出せないだけで、詩集を読んだら読もうって思ってる」
「どの詩集を?」
「図書館にあるの」
「全部かい? それじゃあ、僕の本を読むのはずっと先だね」
「でも詩は読みましたよ。随分と昔ですけども、機関車とか」
――彼は巨大な図体を持ち、黒い千貫の重量をもつ。
その詩にふれあったのは、小学校の頃だっただろうか。蓮子の父親が連れていってくれたSLの博物館で飾られていた詩だった。汽笛がなるおと、振動、煙。それらが紐付けされたように思い出すことが出来る。その頃の蓮子は純粋に詩が好きで、友達にも好きだと言っていた。
「――詩が好きだって、友達に言ったことがありました。先生は素敵だねって言ってくれたけども、でも、みんなおかしいねって」
「おかしくないのにね」
「普通ってなんだろう」
「僕がおもうにね、この世界には普通の人なんていないと思うんだ。誰もが変な人っていってしまったらおかしいけれど、少し人と違ったものをもっているんだ。僕を含めてあの図書館にいる人は顕著だけどね。君にとって普通の人ってどういう人?」
その問いかけに蓮子は考える。
普通の人。多くの人が同じ生活をしている姿。大学の友達。誰かと同じように働いて、誰かと同じ服を着て、誰かと同じような人生を送る。就職活動、仕事、結婚、幸せそうな家庭。それを全て言葉にすれば、中野が眉間に皺を寄せた。
「そんなのが普通だって? 僕からすればそっちの方が異常だと思うな。僕らの方がずっと普通だよ」
「どうして?」
「人と同じであることは確かに安心できるかもしれない。けれど、それに何の意味があるのか僕にはわからない。たった一度きりの人生なのに、誰かと同じ道をたどる必要や、誰かと同じである必要が本当にあるのかな」
そうまっすぐな目で見られて、蓮子は言葉を詰まらせる。でも、そうであったらいじめられなかった。先生の言葉通り周りと同じであれば、穏やかに暮らせたのだ。そう反論すれば、中野は悲しげな表情をした。
「ああ、僕は嘆かわしいよ。好きな物を好きと言っただけで、貶されるだなんて。好きなことをしてるだけで嫌がらせをするなんて。なんら僕らに時代と変わっていないじゃないか」
独り言のような、そんな言葉である。
「ごめんね」
「どうして重治先生が謝るの」
「先に生きていた身として、謝りたくて。ごめんね。でも、好きな物を好きだって言っても良いよ。僕らはそうする権利があるんだ。我慢することじゃない。大丈夫、もし、つぎに君が貶さるようなことがあれば僕は君の味方をするよ」
そうまっすぐに告げた中野に、扉が小さく音を立てて開く。二人してそちらを見れば、文豪達が顔を覗かせていた。
「俺も味方するぜ!」
「だ、だめだよ、花袋くん」
「おい、花袋、邪魔すんなよ!」
「いいだろ、別に。恋人じゃあるまいし。俺だって仲間なんだからな! そうだろ?」
「あのなぁ・・・・・・まぁ、俺様も手を貸してやっても良いぜ」
「僕なんかが手を貸しても・・・・・・」
「そんなこと言うなって!ほら、お前には味方がこんなにいるんだ」
そう明るく告げた田山に、蓮子は中野を見た。
「心配だから、みんなで来たんだよ。東さんに家を教えてもらってね」
「靴」
「ふふふ、啄木さんが綺麗にしまってたよ」
先ほどとは打って変わって朗らかに笑った中野に、蓮子は目を白黒させる。萩原が伺うように蓮子を見た。
「――司書、帰ってくる?」
「・・・・・・いいの?」
「いいよ。今までみたいに、一緒に頑張ろう。これからも」
その、恋人のことは残念だけれど、忘れるくらい、この仕事を楽しもう。
そう告げた中野に、蓮子もうなずいた。
「恋人のことは放っとこうぜ。時期にお前の方が良かっただなんて泣きついてくるかもしれねえけど」
「なにそれ。最悪。追い払おう」
「さて、と一件落着したし、司書の母ちゃんの飯食って図書館に帰ろうぜ」
そう伸びをした啄木に、蓮子は少し笑みを浮かべた。
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