十一



「入り辛い」
 そう呟いた蓮子に、石川啄木が面倒くさいな、という顔をした。面倒くさいのは蓮子自身でもわかっている。しかし、あんな恥ずかしい姿を見られて逃げ出してしまったのだから、仕方ないと声を大きくして言いたかった。蓮子の後ろにいる萩原が小さくクシャミをする。そうですよね、寒いですよね、わかる、私も寒い。蓮子はそうぼやきながら両手を擦り合わせて息を吐く。白い息が手にかかった。
「大丈夫だよ」
 そう蓮子の肩を叩いたのは中野だ。蓮子はちらりと中野を見る。鼻の頭を赤くした彼は、安心させるように笑った。
「大丈夫、君は帰って来たんだから、ただいまって言えばいいんだ」
「それができたら苦労はしないような……」
「さっさと入らないと萩原が風邪引くぞ。そうなったらお前の母ちゃんに密告するからな」
「しなくていい」
 花袋の言葉に首を左右に振る。それは困る。あの後、家族でご飯を食べていたが、どうも蓮子の母親は萩原のおっちょこちょいさというか、不器用さというか、そういう物が好きらしく、よく世話を焼いていた。最終的には蓮子に泣かされたら怒ってあげるから、とまで言っていたのを思い出す。
「というか、俺様も寒いから、入ろうぜ」
 啄木が普通に扉を開ける。中野が蓮子の肩を再度叩くのと、花袋が手を引くこと、萩原が蓮子の背中を押すのは同時だった。
 一歩踏み出して入った館内はあいも変わらず暖かで厳かな雰囲気である。少し雪がちらついた外とは正反対だ。出て行ったときと、少し違うのはクリスマスの準備が整ったのだろう。大きなクリスマスツリーのてっぺんには星が、端々にも装飾品が整えられていた。向いた視線に、ピタリ、と蓮子はかたまる。中野が蓮子を見て笑う。
「ほら、立川さん、言わないと」
 中野の言葉に、蓮子は彼を見て、もう一度彼らを見た。エントランスの階段に腰掛けた彼らは何も言わない。沈黙をさくのは、自分しかいないのだとわかっているが、蓮子は目を泳がせた。見かねた花袋が声を上げる。
「ただいま!」
「ただいま、酒が飲みてぇ」
「ただいま、外、寒い」
「ただいま、寒いと思ったら、雪が降ってきたよ」
 そう笑って階段側に進み始めた三人に、蓮子は意を決したように口を開いた。
「た、ただいま、」
 あたりが静まる。やってくるのは罵声だろうか、と身構えて目を塞ぐがそれはいつになってもこない。しかし、足に小さな衝撃がきた。誰かが抱きついたような。そっと目を開くと、菜乃花が満面の笑みで抱きついていた。どうやら駆けてきた菜乃花が蓮子に抱きついたらしい。
「おかえりなさい、蓮子! みんなでね、待ってたんだよ、ね!」
 菜乃花の言葉に蓮子はそこにいた彼らを見る。時間が止まったような、静寂。しかし、彼らは徐々に緩やかな笑みを浮かべて、飲みかけのカップをそばに置いて、穏やかに言葉を紡いだ。
「おかえりなさい」

 ――その瞬間を、蓮子は忘れないだろう。
 まるで、時が動き出したような。まるで、世界が広がったような。

 蓮子は伺うようにまた言葉を投げかける。
「怒らないの?」
「怒らないよ、戻ってきてくれたからね」
 そう答えたのは棋院だ。やれやれという風に按司が煙草に火をつける。
「お前は逃げたが戻ってきた。それは評価してやる」
「君は何様なんだい? でも、帰ってきてくれて良かったよ。これ以上忙しくなったら、執筆の時間がとれないしね」
「徳田せんせ、さすがの『ツンデレ』ですわぁ。一番心配してたやん」
 オダサクの言葉に徳田がむっとして「うるさいよ」とつげる。佐藤が笑った。
「ま、戻ってきたんだ、終わりよければ全てよし、じゃないか? まぁ、逃げたことは褒められて事じゃないけどな」
「そこは館長に任せましょう。――戻ってくるのは、大切ですよ」
「そうですね、戻ってきたことは大切です!」
 海野さんの言葉に堀がうなずく。東が慌てたように口を開いた。
「館長を呼んでくる! 心配してたし、報告しないと!」
「ここは寒いし、談話室に行こうか。温かい飲み物を淹れよう」
 棋院がそう言って立ち上がる。
「中野先生の言うとおり、僕らはお互いを知る必要があると思うし、今日はたくさん話そうか」
 棋院の言葉に移動を始めた周りとは裏腹に、海野は立ち上がると扉を目指す。佐藤が首をかしげた。
「司書はいかないのか?」
「すいません、私はそろそろ帰らないと」
 そう申し訳なさそうにした海野に蓮子が目を見開いた。
「え、嘘、待っててくれたの?」
「帰りたくなかったので、待っていたというか」
「遼はね、とまとさんきらいなんだよ! 今日のごはん、とまとさんだから、かえりたくないって!」
 菜乃花の言葉に、按司が「ガキかよ」とぼやく。
「……トマト?」
 佐藤さんが首をかしげる。何かいいかけて、海野さんの頭をぽん、と撫でた。海野さんは目を泳がせ、佐藤さんは笑った。
「俺は司書を送っていくから、後で合流する」
「いいですよ」
「俺が良くないんだ。それに俺は初めて聞いたぞ、トマトが嫌いだなんて」
 そんなことを言いながら、佐藤が扉を開ける。海野はチラリと蓮子達を見ると頭を下げた。
「では、また明日。立川さんのお話は明日聞かさせてもらいますね」

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