――彼は潜る、言の葉の森に、音の海に。

 今日はこの冬一番の冷え込みでしょう。そう告げたお天気のお姉さんを僕は少し恨めしく思った。ひらひらと舞い落ちる雪、窓の外を見れば菜乃花が宮沢先生と新美先生と駆け回っているのが見える。ベンチに置かれた雪だるまは高村先生が作ったものだろう。菜乃花や宮沢先生、新美先生に似た雪だるまが仲良くちょこんと座っていた。
「元気だなぁ。それに比べて……」
 僕はそう言って僕の膝の上で丸まった猫をみる。先程まで菜乃花に追いかけられていた彼は散々だという風に疲れた顔をしていた。菜乃花に追いかけられる前は立川さんの湯たんぽと化していた彼だったが、何を思ったのか菜乃花が彼を抱き上げ――雪におとしたのである。余談だけれど、あの時の猫の表情は初めてみた表情だった。地獄に立たされたというか、文字通り飛び上がったというか。以前ネットで見たキュウリに驚いた猫にそっくりだった。
 菜乃花としては一緒に雪で遊びたかったようだ。まぁ、逃げてきた猫の代わりに僕がそれに巻き込まれてしまったのだけれど、寒いのが好きではない僕はさっさと仕事を理由に中に入ってしまった。
 そんな寒い日でも元気いっぱいな子供組が遊ぶ外とは対照的に、図書館の中は静かだった。冬の寒さというか、窓から入ってくる冷気が余計にそう感じさせるのかもしれない。聞こえてくる音といえば、パチパチと暖炉が燃える音、誰かの寝息、本をめくる音ぐらいだろう。その静かな空間は僕の好きな朝の時間に似ている。
 そんな静寂の中で、ポーン、と綺麗な音が聞こえた。最初はその一音だったけれど、その音は繋がり始め、ついには美しいメロディーへと変わっていく。誰が弾いているかは予想できた。しかし、彼が弾いているのは珍しい。彼はあまりピアノを弾いてくれないからだ。

 音の出所であろう部屋の扉を開ければ、ピアノの前にはやはり棋院くんが座っていた。その近くには館長、つい先日現れた芥川先生に夏目先生、徳田先生、知らない男性がいる。音は流れるように奏でられ、止まる事なんてない。僕が現れたことに気づいた館長は「あぁ、東くん」と笑った。男性は大丈夫そうですね、と笑うと館長に頭を下げて出て行く。館長もまた同じく頭を下げた。
 来客だろうか。その様子に僕は今日の予定を思い出す。確か、今日は――図書館の奥にあるふるいピアノの調律師が来る日である。
 僕は冷や汗を流しながら館長を見た。館長は気にするなという風に手を振って笑う。
「菜乃花に追いかけられていたのが見えたからな、声をかけなかったんだ。まぁ、俺も休憩がてら、な?」
「ありがとうございます」
「――それにしても、彼は本当に上手いな」
 そう館長が棋院くんを見る。ポーン、という音を響かせて止まった音色、パチパチと拍手をしたのは芥川先生だろう。その音にハッとした棋院くんは苦笑いを浮かべた。夏目先生は感心したようにピアノと彼を見る。
「知りませんでしたね、司書にこのような特技があるとは」
「そうですね、もう一曲お願いしたいぐらいだ」
 芥川先生の言葉に、棋院くんは赤い布を鍵盤にかぶせるとピアノの蓋――と言っていいのかわからないけれど――を閉めた。
「おしまいです、そろそろ志賀先生たちが帰ってきますから」
「じゃあ、また聞かせてくれないかな?」
「俺なんかの演奏を聞いたって時間の無駄ですよ」
 苦笑いしてみせた彼は部屋を出て行く。徳田先生がやれやれとため息をついた。
「彼、ピアノの演奏は得意だけど嫌いだからあんまり頼まない方がいいかもしれない。まぁ、彼がピアノのことで機嫌を損ねたところを僕はまだ見てないけど」
「得意だけど嫌い? それはまた困った表現だ」
 芥川先生の言葉に夏目先生は考える。そして、得意が嫌いになる瞬間が恐らくあったのでしょう、と告げた。
「でも、彼、潜書する時に洋琴の音がするから、本当はすきなんじゃないかな」
「え、」
 芥川先生の言葉に、僕と館長は顔を見合わせる。徳田先生がそれに気づいて首を傾げた。
「どうしたのさ」
「いや、潜書する時ピアノの音が聞こえるってどのタイミングですか?」
「世界が切り替わる瞬間だよ。まぁ、人によって違うみたいだね。僕も前に違う司書の力で潜書したから知ったんだけど」
「あぁ、アレは人によって違うんですか」
「按司くんは無音、尚且つ一瞬で景色が変わりましたよ」
「どうりで寛と話が合わないはずだ、寛は桜吹雪に包まれるって言っていたから」
 芥川先生は感心するようにピアノを見た。
「人によって変わるなら、どうして彼はピアノの音色で始まるんだろう?」
「それは恐らく、彼の潜在的なモノが影響してるんだろうなぁ」
 同じく感心したようにしていた館長が呟くようにそう告げる。僕らが館長に何か言葉を返す前に、扉が開いた。現れたのは按司くんである。
「棋院、ちょっといいか――って、もういないのか」
「按司くん、ノックぐらいしたら?」
「アイツ、本とかピアノに没頭しだしたらこっちの音は聞こえないんで意味ないンすよ」
 そう言った彼はやれやれという風に息をはく。そういう問題ではないだろうに。彼はぐるりと部屋を見渡して頭をかいた。
「ったく、妹が来たってのにあいつはどこにいきやがった」
「彼なら潜書の部屋じゃないかなって、妹? 司書の?」
「あぁ、マセガキが来た――って痛い」
 少し前のめりになって振り返った按司くんに、僕らは扉の向こうを見る。按司くんが大きくて見えはしないけれど、スカートのような布がチラリと見えた。
「お兄ちゃん、いないんですか?」
 聞こえてきたのは鈴の音のような可愛らしい声だ。
「仕事行ったってよ」
「ここが仕事場でしょ?」
「別んトコがあるんだよ。ま、アポなしなんてこんなもんだ」
「むー……」
「お前が来たことは伝えてやるから、今日は帰れ。発表会、近いんだろ」
「今度は連絡してからくる」
 不機嫌そうな声だ。
「門まで送ってやろうか?」
「いい」
「滑って転ぶなよ」
「転ばない。じゃあね」
 そんな声と廊下を歩く小さめな靴音が響く。しばらくすれば窓の外に一人の少女の後ろ姿が見えた。といっても、可愛らしい柄の傘に邪魔されてよく見えないのだけれど。雪がひらひらと舞い落ちる。彼女の後ろ姿は段々と白に溶け込んで消えた。

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