七
「どうして彼女と演奏をしないんだい?」
そう棋院くんに尋ねたのは芥川先生である。煙草を吹かした彼は、何処か疲れたような棋院くんを見下ろした。
彼女――棋院くんの妹である雪乃ちゃんはあの部屋で泣いているらしい。立川さんが慌てて彼に告げに来たけれど、棋院くんは「どうして俺が行かないといけないんだ?」と彼らしくない返答をした。僕が彼女の様子を見に行けば、田山先生が励まして、荷風先生がなだめているのが見えたので恐らくは大丈夫だろうけれど。
今日の彼は何処かいつもと違うように見える。いらいらしているのだろうか。今も彼の指はトントンとソファの肘掛けを叩いていた。
「――俺はあの子の伴奏係じゃない」
棋院くんはそうぽつりと告げる。
「俺はあの子の引き立て役でもない」
「そうだね、知っているよ。君は引き立て役じゃない」
そう肯定して見せた芥川先生に、棋院くんは「そうですか」とただ一言告げた。そして、しばらくの間のあと、彼は言葉を紡ぐ。
「――でも、あの子の演奏を聴いたとき、貴方は俺のピアノを聞いて思ったはずだ。俺のピアノはあの子の『添え物』だって」
「否定は出来ないね。彼女の音色は魅力的だったから」
芥川先生のはっきりとした言葉に、彼はまた目を伏せた。
「でしょう? 俺はもう、そういう評価に疲れたんですよ。だから、ピアノを弾きたくないんです」
棋院くんは自嘲した。彼がこんな笑みを浮かべるのは珍しい。疲れているのかもしれない、と思う。彼は司書の中心的な立ち位置であるし、僕らや館長の手伝いもよくしてくれているからだ。それに加えて、彼の妹のヴァイオリンの演奏にまで付き合っている。実に多忙だ。大丈夫、と僕が尋ねる前に、芥川先生が棋院くんを見下ろした。
「――君はなんのためにピアノを始めたんだい?」
そう尋ねた芥川先生に、彼は何も言わない。
彼がどうしてピアノを弾くのか。なぜソレを始めたのか。
ピアノは習い事としてはとてもポピュラーだけれど、館長はそういう理由ではないと思う、と以前告げていた。ならば、理由は何なんだろう。
「『評価される為』ならば妹との差に君が筆を折ってしまうのは致し方ないね。それほどまで、彼女の奏でる音は魅力的だから」
「そんなこといわなくても――」
たまらなくなって口を出す。棋院くんのピアノの音も魅力的だ。そんなことを言わなくてもいいんじゃないか。僕の言葉に芥川先生が「これが事実だよ」と告げる。
「でも、君がピアノを弾く理由が、『評価される為』じゃないのならば、君はピアノを弾くべきだ」
芥川先生はまた紫煙をくゆらせる。
「僕の人生は寛や徳田先生、志賀先生みたいに長いものではなかったけれど、それでも君のような人はたくさん見てきたよ」
「俺みたいな人、」
「作家をしてるとね、同業者というか、そういうつながりの人は少なからず出来るんだ。その中で、何人も君みたいな人を見たことがあるよ。それでもやっぱり、寛ほどでは、ないんだろうけども」
芥川先生は何かを思い出すようにぼんやりと宙を見る。懐かしむように、誰かを思うように。それがどんな人なのかは僕には全くわからないのだけど。彼はしばらく煙草の煙に思いをはせるかのように黙り込む。しばらくの沈黙の後、芥川先生は棋院くんを見る。
「君みたいに、優しくて、努力家な人物は特にそうなのかもしれない。周りの意見を全て聞き入れてしまうから。でも、全て受け入れてしまえば、どれが本当の目的だったかなんてわからなくなるんだ。君は評価される為にピアノを始めたのかい?」
諭すような言葉だ。棋院くんは何も言わないけれど。芥川先生は気にせずに言葉を継げる。
「近しい人が評価される苦悩は僕はわからない。それは僕が評価されてしまった側だからだ。按司くんの言葉を借りるならば、僕が勝者の方にいるからだろうね。こういうことはきっと、徳田先生のほうが理解してくれるかもしれない。でも、『勝者』である僕らにも言い分はある」
芥川先生は彼を見下ろす。
「僕は君の奏でる音が好きだ。だから、奏で続けてほしい。周りの言うことなんて、気にしないでほしい」
その笑みは、少しさみしいような、それでも穏やかで美しい笑みだった。彼は小さな子をあやすように棋院くんの頭に手を置いた。
「君の妹の音色は魅力的だよ、とてもね。でも、僕はその音色よりも君の奏でる音色が好きなんだ。だから、僕は君に奏で続けてほしい」
芥川先生はそう言って煙草を灰皿に押しつける。
「徳田先生もそう思いますよね?」
扉の外に声を投げかけた芥川先生に、徳田先生がため息をつく声が聞こえた。
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