扉を開けた徳田先生はやれやれという風にため息をついた。
「気づいてたの?」
「ええ、まぁ、でも、半分は勘ですよ。貴方が様子のおかしい司書を放っておく様には見えなかったので」
 芥川先生の言葉に徳田先生は棋院くんを見る。少しの沈黙の後、彼はそっと言葉を吐き出した。
「――君は無意識かもしれないけれど、君の力で潜書をするとき、綺麗なピアノの音が聞こえるんだ。それも、本によって違う。どれも美しいメロディなんだ。僕はそれが好きだよ」
 徳田先生の言葉に、棋院くんは首を左右に振った。
「それは、きっと、先生が書く音で俺が奏でる音じゃない。貴方達が作り上げた音だ」
「――そうなのかい?」
「ええ、全ての文字には音が宿るから」
 芥川先生と徳田先生が不思議そうに棋院くんを見る。僕もどういうことだろうか、と彼を見た。
「どんな?」
「ピアノの音」
 そう棋院くんが目を伏せる。芥川さんが目を見開いた。普通の人ならばわからないそれだ。
「それは、小説に?」
「いえ、全て。報告書だって、小説だって、看板だって、文字が書いてあるもの全てに」
 棋院くんはそう言って机においてある小説を眺める。
「でも一番綺麗な音は文学作品なんです。聞こえる音色が美しいというならば、その配列を考えた貴方達の功績でしょう」
「そんなことはないと思うよ」
 今度は徳田先生が強めの口調で言った。
「間違いなくそれは君が奏でた音だ。同じ楽譜でも、奏者によって違う音をかなでるじゃないか」
「でも、楽譜がなければ奏者は奏でられない」
「そんなことはないはずだよ。そもそも、君がピアノを始めた理由は何なわけ? 評価されたいから?」
「違う」
「違うなら何でそう功績の話になるんだい?」
「それは……でも、」
 棋院くんが子供のように目を泳がせた。徳田先生が目を伏せて言葉をまた紡ぐ。
「僕は芥川さんみたいな人でも、鏡花みたいな人でもない。地味だ地味だってよく言われるような人間で、華やかな道にいるような人じゃない」
 その言葉にやっと、棋院くんが顔を上げた。必死な顔で。
「それは違う。貴方の書く話は本当に綺麗な音を奏でるんだ、綺麗なんだ、地味なんかじゃない」
「それ、出会ったときにも言ってくれたね。僕の作風が好きで、僕の書く話も詩歌も好きだって。でも、現に、僕はあの門下生の中で一番影が薄かった。評価されたのだって晩年だ」
 徳田先生の言葉に、棋院くんが声を荒げる。
「そんなことは関係ない!」
「そうだろう? 僕が言っているのも同じ事だよ」
「――」
「僕はあのときの君の言葉が嬉しかったんだ。とても」
 そう少しそっぽを向いて、徳田先生は告げる。
「僕の書く文章は美しくない。芥川さんの書く文章の方が華がある」
「――いいえ、それは違う」
「君はそう言うだろうね。じゃあ、僕も言うよ。僕は君の奏でる音が好きだ」
 その言葉に、彼は目を丸々と見開いた。
「君の奏でる音が美しくないなんて誰が決めたんだい?」
「まわりが、」
「周りって誰のこと。この図書館で君の奏でる音色を否定する人なんていないよ」
「――でも、妹の方が」
「違う。妹の話をしてるんじゃない。僕らは君の奏でる音が好きだっていってるんだ。君が評価に囚われているなら、コレも一つの評価じゃないか。どうして肯定的な評価には耳を傾けてくれないんだい?」
 徳田先生の言葉に、彼は何も言わずに片手で顔を覆う。
「まだ足りないって? 何回でも言ってあげるよ。僕の賛辞だけで足りないなら、他の賛辞も聞かせてあげようか?」
 徳田先生がこちらを見る。
「僕は好きだよ、去年ひいてた時も、すごいうまいなって思ってたし……」
「僕も司書のピアノの音好きだけどな」
 芥川さんがそういっていたずらに成功した子供のように笑みを浮かべた。ね、夏目先生、と扉を見た彼に、閉まった扉の奥から声が聞こえる。
「私も好きなんですけど、滅多に聞けないのが難点ですね」
「そうだよなぁ、もっと弾けば良いのに、とは思うよな」
「ええ。僕も、あの音は好きですよ」
 どうやら文豪達が扉の前にいるらしい。荷風先生の声がまた言葉を紡ぐ。
「でも、一番、君の音が好きな人は他にいる。君を一番評価している人物も他にいる」
 その言葉に、棋院くんは手をよけた。涙で濡れた目がちらりと扉の方を見た。
「君の妹だ」
「――……」
「君の妹は――」
 荷風先生の言葉を遮るように、棋院くんは口を開いた。それ以上は聞きたくないという風に。
「――知ってます、わかってるんです。だって、雪乃は、俺がピアノを弾くと嬉しそうなんです。とても。昔から、せがんできたんです。絵本を持って、本を持って、新聞を持って、コレを弾いてと、本当に昔から」
 彼はそう言って目を伏せた。ポロリと涙が流れる。
「だから、苦しいんですよ。俺がピアノを弾き始めたのは、周りが俺の世界を理解しなかったから、それを表現する為だったんです。あの子の望む音はそこにあるのはわかってるんです。でも、周りが望むのは違うんです――周りが望むのは添え物の俺だ。文字を奏でる俺じゃない」
「ああ、もう、お前はああいうとこう言う奴だな」
 我慢できないという風に荒い足音を立てて志賀先生が中に入ってくる。
「いいか、誰でも周りが望むことが全てこなせると思うな。北原は例外なんだ。アイツは高い才能があって、なおかつ努力をしてるから周りの期待をずっと裏切らずにいる。でも、アンタも俺たちも違うだろう!?」
 そう胸ぐらを掴んだ志賀先生は眉間に皺を寄せて告げる。
「俺たちは、表現したい何かのために筆を執ってるんだ! お前もそうだったんだろう! なら、目的を見失うなよ! 自分のために奏でろ! 誰があの子の添え物だ! お前の表現を馬鹿にする奴がいるなら、俺が殴ってやるから連れてこい!」
 一息にそう言った志賀先生に、棋院くんは腕で顔を隠した。小さな嗚咽が聞こえる。扉から少し顔を出した夏目先生が告げる。
「立川さんの時も思いましたが、君たちは少々我慢するのがくせになっているようですね。花袋くんのように好きな物を好きと、主張を通せる強さを持つことも大切ですよ」
 夏目先生がチラリと廊下の方を見た。音を立てた足音は、男性のそれを連れて少し遠のいていくのが聞こえる。
 夏目先生の言葉を聞いた徳田先生がやれやれとため息をつく。
「ちゃんと持ってると思いますよ。だって、そうじゃなきゃ文学が好きだといってここにいませんから」
「それはそうですね」
 そう夏目先生は少し笑ってお茶にしましょうか、と告げた。

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