「帰っちゃうのか?」
 そう尋ねたその人は、私によく喋りかけてくれる人だ。名前はたしか、花袋さんだったと思う。変な名前、と笑った私に彼は怒ることもなく「でも、花に袋って書くんだぜ、素敵だろ?」だなんて笑うのだ。彼はこの図書館に勤める人で、兄の同僚というか部下というかそんな人らしい。
「うん」
「多分、もうすぐでまた弾いてくれると思うぜ」
「私がそんな気分じゃないの」
 そう返答すれば、彼は目をパチリと瞬かせた。とても、演奏をする気分じゃない。
「じゃあ、俺と話そう! そう、それがいい!」
 彼はそう言って私の手を弾いて誘導してくれる。階段を下りて、古めかしい廊下を歩いて。食堂も談話室も人が多いしな、でも、外は雪が降っていて寒いな、と様々に迷ったらしい彼はまるで迷宮のような図書館をすいすいと進んでいく。
 たどり着いたのは、本棚がたくさん並んだ場所だ。図書館だから、それは当たり前なのだけれど。ステンドグラスの窓が一つあるそこには、小さな椅子が二つ並んでいた。
「さぁさ、座って」
 そう椅子を叩いた彼に私は促されるまま座る。にこにこ、にこにこと上機嫌に笑う彼に何を話せば良いのかと目を泳がせる。そんな私の様子を気にすることも泣く、花袋さんは私に喋りかけた。
「雪乃ちゃんは本が嫌いなのか?」
「しいていうなら、苦手です」
「え、詩や短歌は?」
「よくわかりません」
「じゃあ、小説」
「あまり読みません」
 私の返答に彼は目を丸々と見開いた。よくわからないけれど、衝撃的たったらしい。
「お兄ちゃんはよく本を読むけど、私はあんまり」
「なんで?」
「本がお兄ちゃんからピアノをとっちゃったって思ってたから」
 拗ねた子供のように足を揺らせば、彼は苦笑いをする。
「そっか」
「でも、違ったみたい。お兄ちゃんからピアノをとったのは、私だったのかも」
「それは違うと思うぜ」
 そう言った花袋さんは優しく笑って頬杖をついた。
「雪乃ちゃんのせいじゃない」
 やけにまっすぐに言う人だな、と思う。この人は、時々、こういう面を見せるときがあった。あまり話したことはないけれど、時々、こういったまっすぐな目で言葉をつげてくることがある。
「あれは、棋院が向き合うべき場所から逃げただけだ。だから、君は悪くない」
「でも」
「だって、言えば良かった話だろ? 雪乃ちゃんと比べられたくないって。演奏したくないって。拒否権はあったはずなんだよ、アイツにも。優しいから付き合ってたのかもしれないけど、俺はそういうのを優しさとは思えないね!」
 だから君のせいじゃない、と彼は優しく告げる。
「本当に優しい奴は正直に面と向かって言ってくれる」
「今の貴方みたいに?」
「そう、今の俺みたいに!」
 また満面の笑みを浮かべた彼は言葉を続けた。
「でも、まぁ、今回でアイツも向き合ったんだし、大目に見てやってくれよ。一発殴るぐらいでな」
「私が殴るの?」
「君が殴る。『何で早く言ってくれなかったのよ!』って。で、君が殴られそうになったら俺が庇うから安心しろよ!」
 そう胸を張った花袋さんが面白くてクスクス笑う。彼はソレさえも許してくれるらしい。口元に少し笑みを浮かべた彼は、また口を開く。
「――雪乃ちゃんはヴァイオリンが好き?」
「うん、イヤなときもあったけど、好き」
「お兄さんとの演奏は?」
「好き、とっても楽しいから」
「じゃあ、好きな物は好きって言わないと損するぜ。ま、偶に気持ち悪いとか言われるけど、好きな物は好きって言わないとな」
「花袋さんは言われるの?」
「言われる。世間から言われた事もあるけど、好きなものは仕方ないよなぁ」
「何が好き?」
「俺? 俺は――」
「花袋、それぐらいにしないとその子にひかれるぞ」
 現れたのは赤いパーカーのような物を着た人だ。びくりと肩を揺らした花袋さんは彼を見る。
「啄木、いつから」
「本嫌いなのか? から」
「最初っからかよ……」
 そう頭を抱えた彼に啄木と呼ばれた人はからかうように花袋さんを見下ろした。
「ってか、おい、テメー、仕事ほっぽり出して美少女と会話とは良い度胸してんな」
 そう言って啄木さんは花袋さんの襟を掴むと引きずりだす。彼は振り向いて、私に向かって言葉を紡いだ。
「あと、お前の兄貴が探してたぞ。でも、もっと困らせちまえ」
 彼の言葉に花袋さんが大きくうなずく。
「そうだそうだ! 困らせてしまえ! あと、好きな物を宣言してやれ。好きな物を好きって言って何が悪い!」
 花袋さんの言葉に私は少し笑ってしまう。啄木さんが足を止めて引きずっていた花袋さんを見下ろした。
「お前のはちょっとなぁ」
「そういうアンタもだろ」
「俺様はまだ健全だろうが!」
「アンタの日記、図書館にあるんだぜ。この前、蓮子が読んでドン引きしてたんだからな」
「は?」
「その点、俺のは『美少女相手なら仕方ないよね』って言ってたんだぞ。俺の趣味に理解ある司書でよかった」
 肩待て閉まった啄木さんから、花袋さんはこちらに視線を移す。そして、一際大きな声で言葉を紡ぐ。
「俺は美少女が好きだ! 君の弾くバイオリンの音も好きだ! 君が苦手だと言った文学も好きだけど! あと、君も好きだ!」
 そんなことえお大声で言う物だから、私はどこかおかしくてクスクスと笑ってしまう。本当に面白い人だと思う。
 ――好きなことを好きって言って何が悪い。
 その言葉を胸に、私もまた言葉を紡ぐ。
「私も花袋さんみたいな人、面白いから好き」
 私の返答に彼は目をまん丸とさせて、片手で顔を覆った。
「尊い。なんかもう全てが輝いて見える気がする。おい、夢じゃないよな。今、美少女が、聞いたか、」
「あー、棋院妹、あんまりこいつに変なこと言うなよ」
 啄木さんはそう言って、彼を引きずって角に消えた。それをすっと見送って、私は椅子から立ち上がった。
「好きな物を好きって言って、何が悪い」
 もう一度、彼の言葉を復唱する。その言葉に、背を押された気がする。

 私は兄が弾くピアノが好きだ。
 譜面を読みながら、ではなくて、小説を片手に弾いているピアノがとても好きだ。
 そんな兄と一緒に演奏することも好きだし、バイオリンも好き。
 そうはっきり告げれば、兄は困ったように笑うのだろうけれど、もう少しくらいワガママを聞いてくれるかもしれない。私が大好きなピアノを弾いてくれるかもしれない。

 そっとその場から離れようと足を踏み出せば、猫がとことことやってきた。にゃあ、と私を見て鳴いた猫は引き返すように歩いて行く。そこで、ああ、この図書館は迷路みたいだったと思いだした。花袋さんが連れてきてくれたから、私はどこをどう行けば元の場所に出るのか見当もつかない。
 どうしよう、と周りを見渡す。猫が振り返って、ついてこいと言わんばかりに、ニャア、ともう一度鳴いた。

31


prevINDEXnext