十
人の言葉を操るあの猫が消えたと思ったら、雪乃ちゃんを連れてきたらしい。按司くんが「花袋サンが連れていったぞ」という物だからどうなるかとヒヤヒヤしていたが、石川先生が花袋さんを引きずっていくのをみて安心した僕は悪くないと思う。美少女大好きな彼と二人きりにさせれば何があるかわからないからだ。でも、まぁ、彼らは基本的に今を生きる僕らのような価値観ではないのだから、付き合ってもない男女がああだこうだということはないのかもしれないだろうし、彼の性格上そんなことをすることはないだろうけれど。
雪乃ちゃんはコツコツとヒールを響かせて、スカートをふわりと揺らして、棋院くんに近づく。そして、その小さな手で棋院くんの手を掴んだ。
「雪乃?」
「お兄ちゃん、私ね、お兄ちゃんが弾くピアノが好き」
そう告げた彼女に棋院くんは目をパチリと瞬く。
「だから、お兄ちゃんと一緒に演奏するのが楽しいし、好き。バイオリンも好きだし、紅茶も好きだし、チョコレートも好き」
言葉を羅列した彼女はしっかりと棋院くんを見た。
「でも、本は苦手。文字もね。だって、お兄ちゃんはソレしか見なくて私と遊んでくれなくなっていったし、詩や短歌も昔の小説も訳がわからないし、文字は勝手に動くんだもの」
「――そうだね。雪乃にとっては、そうだ」
どういうことだろう。とは、決して口に出せることではない。でも、恐らく棋院くんはどういう物かはわかっているのだろう。彼は否定せずに優しく首を縦に振った。
「でもね、本が好きだなって思うときもある」
「そうなのかい?」
「お兄ちゃんが、譜面じゃなくて、本を置いてピアノを弾いてるときは、良いなって思う。文字じゃ理解できないけど、お兄ちゃんが弾いてたらわかりやすいから」
その言葉に、棋院くんはただただ驚いたように彼女を見た。彼女は言葉を継げる。
「私はお兄ちゃんが本を読みながらピアノを弾いてるのを聞くのが一番好き。だから、お兄ちゃんにピアノをやめてほしくなかったの。だから、一緒に演奏したかったの。そうしないとお兄ちゃんがピアノをやめてしまう気がしたから」
そう告げた雪乃ちゃんに棋院くんは何も言わない。言えないのかもしれない。彼女は気にしていないのか、優しく言葉を紡ぐ。
「花袋さんは、お兄ちゃんが優しくないって言ってた。お兄ちゃんが向き合うべき場所から逃げただけだって。本当に優しい人は物事をはっきり言ってくれるって」
「――そう、だね。俺は優しくなんかないさ」
棋院くんはそう肯定した。俺は優しくなんかない、ともう一度。
「でも、私はお兄ちゃんは十分に優しいと思うよ」
雪乃ちゃんはそう言って目を伏せた。
「人の事を自分よりも優先する人だから。だから、お兄ちゃんは私との演奏がイヤでも付き合ってくれるし、お父さんやお母さんの言いつけだって守るのよ」
「――俺は優しくなんかないよ。優しい人でありたいとは思ってるけどね」
そう優しく笑って、少し屈んだ棋院くんは雪乃ちゃんの手からするりと手を外す。ぽん、と頭を撫でた棋院くんは笑った。
「俺も雪乃のバイオリンの演奏、好きだよ。だから、俺なんかが伴奏するより、もっとうまい人が伴奏するべきだと思う。ああ、これじゃまた先生達に怒られてしまうね」
彼はそう言って、目を伏せる。
「――僕は譜面に書かれた音符を辿るためにピアノを始めたわけじゃない。僕は文字の宿る音を表現したくてピアノを始めたから、譜面を自分の世界に置き換える雪乃の演奏とは合わないんだ。だから、周りの人も違うよって言うんじゃないかな。俺の演奏と雪乃の演奏はあわないよって。それに、雪乃が心配しなくても、俺はピアノをやめないよ」
「――本当?」
何処か不安げに、幼いこともみたいに雪乃ちゃんが首をかしげる。棋院くんがソレを見て、また優しく笑んだ。
「本当。だから、一人で舞台の上に立ってみるんだ。雪乃なら大丈夫。大学に行けばイヤでも一人で立たなきゃいけないんだ。できるね?」
棋院くんの言葉に、雪乃ちゃんがこくんとうなずく。
「――何も僕は一緒に演奏したくないわけじゃないよ。今度、暇なときにおいで。そのときまでに楽譜を用意しておくよ」
「――なんの曲?」
そう伺うように尋ねた雪乃ちゃんに棋院くんは笑う。
「誰の作品が良い? ここには本がたくさんあるから、雪乃がすきな本で良いよ」
「本、よくわからないから」
雪乃ちゃんの言葉に、話を黙って聞いていた文豪達がピクリと動く。懐から自分の著作を取り出した彼らに棋院くんと僕は苦笑いをした。雪乃ちゃんは驚いていたようだけれど。恐らく、ここにいる彼らが本の作者――文豪だとまだ知らなかったのだろう。
先生達の作品のプレゼン大会はなかなか面白かった。自分の作品じゃないものまで勧めたりするのだから、聞いていて飽きないし、彼らがその作品をどういう目で見ているかわかったからだ。まぁ、選曲というか、選書に関しては、結局、雪乃ちゃんが「よくお兄ちゃんが弾いてた曲が良い」という一言きまった。話に参加していなかった徳田先生の作品である。その言葉に、少し残念そうな芥川さんが雪乃ちゃんをみて口を開く。
「花袋くんの作品じゃなくてよかったのかい?」
「花袋さん?」
「アイツも作家だぞ」
「そうなんですか?」
「ちょっと、何決断を揺るがそうとしてるのさ」
徳田先生がむっとしながら告げる。雪乃ちゃんは少し笑った。
「でも、花袋さんの話なら読みやすそうかも……?」
「雪乃、花袋先生は紀行文にしておこうね」
そうやんわりと告げた棋院くんに僕らは顔を見合わせる。確かに田山先生の紀行文も秀逸だけれど、それより有名なのは――。ああ、なるほど。確かに彼女に読ませるのは早いというか、なんというか。
「……きみって案外過保護だね」
「そんなことはないですよ」
徳田先生の言葉に、棋院くんは苦笑いをする。優しいお兄ちゃんだね、と告げた芥川先生に雪乃ちゃんはそうでしょう? と満足げに笑った
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