十一
そう告げた幼い妹は手に持った絵本を床に転がした。文字がうじゃうじゃするとはどういうことかその絵本を覗いてみたけれど、俺にはいつも通り音を奏でる文字にしか見えない。
「文字がうじゃうじゃ?」
「もじはね、いもむしさんなのよ」
「芋虫?」
「うごいちゃうの」
もう一度絵本を覗いたって、そこには芋虫のような文字は何一つない。でも、恐らく妹にはひらがながそう見えているのだろう。俺が文字から音を拾うみたいに。
「じゃあ、これは?」
俺は紙に文字を書く。ポロン、とピアノの音がこぼれ落ちた。
――カタカナ。蟻さんに見えるらしい。
カタカナで文章を綴れば、蟻さんの行列、と妹は言った。
――アルファベット。まだ読めるけれど、順序が偶に逆になる。
まぁ、英語はまだ習わないわけであるし、今はまだ大丈夫だろう。
――数字。これはすんなり読める。
――では、音符は。
「おたまじゃくし」
妹の言葉に、俺は譜面を見る。確かにオタマジャクシだ。クスクスと笑ってしまったのは仕方ない。
「ソレは元々かな? このオタマジャクシには、一つずつ音があってね」
そう言って、ピアノの前の椅子に座る。ひとうひとつ『オタマジャクシ』を説明しながらピアノを奏でれば妹は目を瞬いた。
「もじは?」
「文字は普通ピアノの音はつかないんだって。お兄ちゃんがおかしいだけ」
そう言って絵本を譜面台に置く。その絵本は何度も妹が読んでとせがんできた絵本で、話の内容はとっくに暗記していた。正しくは、音を、だけれど。
絵本の物語に沿ってピアノの鍵盤を叩き始める。絵本の内容を口ずさみながら。それが全て終われば、もういっかい、とせがんだ妹に俺は苦笑いをしけれど、イヤではなかったのだ。
――そんな穏やかな日が、確かにあった。
「結局、文字にピアノの音がつくって、どんな感じなの?」
そう尋ねてきた徳田先生に、棋院くんは苦笑いをした。どんな、といわれても俺には当たり前なので、と告げた彼。テーブルには随分と読み込まれた本と五線譜が並んでいる。
「どんな文字でも音がするの?」
「しますね。だから、車の免許が取れないんですよ」
「どうして?」
「町の中にはたくさん看板があるでしょう? ソレが視界に入ると音がするので、運転に集中できないんですよ」
棋院くんの言葉にそれもそうか、と思う。全ての言葉に音がついてしまうのなら、至る所に文字がある町中は彼にとってはかなりうるさいのかもしれない。
ふうん、と、少し考えた徳田先生は「なんでだろうね?」と首をかしげた。
「どうしてかは俺もよくわかりません。昔、親が医者に連れていってくれましたが、原因はわかりませんでした。共感覚っていうみたいです」
棋院くんの言葉に僕は納得するけれど、先生達は首をかしげた。
「共感覚?」
「嗚呼、それなら僕も知ってるよ。音に味を感じたり、文字に色を感じたりするんだよね。神経が誤反応をどうこうとはいわれてるけど、まだわからないんですって」
「ふぅん、そんなもんがあるんだな」
芥川先生の隣でそう言ったのは菊池先生だ。時計が午後六時を指しているのをみると海野さんは帰ったのだろう。菊池先生は納得したように棋院くんを見た。
「――まぁ、一種の才能に似た奴ってことか」
その言葉に、芥川先生は新たな謎が生まれたんだろう。菊池先生と同じように棋院訓を見た彼は首をかしげた。
「じゃあ、君の妹も共感覚ってやつかい? 文字が動くって言っていたけれど」
「いえ、妹は違います」
首を緩やかに振った棋院くんは、でも、妹にはそう見えてるんですよ、と告げた。
「それは、原因がわかってるのかい?」
「わかってません。昔はその研究の道に行こうかとも思ってたんですけどね、妹が気にしてなさそうだったので。まぁ、そのおかげで錬金術師の端くれを名乗れているんですけどね」
棋院くんの言葉に僕は目を瞬く。今、さらりと文系野道を突き進んでいた彼が錬金術師になったのかに触れられたけれど、それよりも雪乃ちゃんのことだ。
「え、気にしてないの?」
「開き直ってるというか」
苦笑いした彼に、僕は同じく苦笑いをした。開き直りも人生には必要だぞ、といった菊池先生に僕も学生の時開き直ったことがあったな、と思う。特に数学関係のことで。
棋院くんは補足するように口を開く。
「でも、そうなるのもわかるんです。俺たちが本を読んで空想に浸る代わりに、あの子は音楽を聴いて空想に浸るんですよ。それも、作曲者が意図した形にほぼ正確に。俺たちには難しいでしょう?」
確かに難しい。どこが村人の踊りだとか、どこが雨の音だとか、説明があればなんとなく「そうなのか」でおわるけれど。
徳田先生は机の上に拡げられた五線譜を見た。芥川先生がぼんやりとしながら首をかしげる。
「――なら、君がピアノを弾けばあの子は僕らが書いた話を理解できるんだ」
「ああ、理論上、確かにそうなるな」
「じゃあ、君が此処に或る本を全て弾いてしまえばあの子は此処に或る本を全て読むことになるんだね」
「そうなるな」
「芥川先生、菊池先生、俺を過労死させる気ですか?」
固まりながら告げた棋院くんに、二人は「冗談だよ」と告げたけれど、徳田先生が「ちょっと本気の時の声色だったよね」とさらりと告げた。
――あの日から、閉館した後にピアノの音が響く時があった。
どうやら棋院くんが弾いているらしい。美しい旋律は図書館の外にいても聞こえるのか、偶に誰が弾いているのかと問い合わせがくるときがある。苦情かと身構えたら褒められたと苦笑いした棋院くんは記憶に新しい。
何度か文豪と司書の間で今日弾かれているのが誰の作品か当てるゲームがあったけれど、最近やって来た江戸川先生が正解をかっさらっていくので終わってしまった。
どうしてわかるのか、と僕が聞いてみれば、僕らが彼の音楽に聴き入っている間に彼は法則を見つけてしまった、という話だった。さすが推理小説家というか。
付け加えるのならば、棋院くんもその法則を聞いてい「そうだったのか」と驚いていたのも印象的だ。按司くんが「なぜ自分で自分のことを研究しなかったのか」と呆れたようにいっていたけれども。按司くんの指摘はある意味的を射ているだろう。
――まぁ、その答えは、棋院くん曰く「文学の方が魅力的だったから」だそうだ。
そんな棋院くんは最近は本を読みながら五線譜に音符を書いている。今日もそうだ。僕は五線譜だけを見ても誰の作品かわからないけれども、そばにある本には徳田秋声全集と書かれているのを見るに徳田先生の作品らしい。タイトルは『春光――ピアノとバイオリンのための変奏曲』となっている
「それ、何時になったら出来るんだい?」
「雪乃が来る頃には出来ていると思いますよ」
「何時来るんだ? 花袋が泣いてるぞ」
「――また雪が降る頃に来るんじゃないですかね」
そう窓を見た棋院くんに僕らもつられて窓の外を見る。
外は快晴だ。でも、今日は確かお天気のお姉さんがこう言っていた気がする。
――今日は夜にかけて冷え込みが強くなり、明日は雪になりそうです、と。
おそらく、明日。またあの子は可愛らしい傘をさして、やってくるのだろう。そして、その小さな手で扉を叩くのだ。その姿を花袋先生は待ち望んでいるだろう。そして、僕らも待ち望んでいるのだ。二人の共演を。
「結局一緒に演奏してあげるのか。『優しいお兄ちゃん』だな」
菊池先生の言葉に棋院くんは「いいえ」と首を左右に振った。
「本当に優しいのは、きっと、雪乃の方ですよ」
寒い雪の日の-終-(一五九四九五/五二五六〇〇)
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