「荷風さん、館長、少しいいですか」
 そう言った高村先生に、荷風先生と話していた館長は僕らを見て首を傾げた。机の上に拡げられているのはフランス文学の本ばかりだ。おそらく、それについて離していたんだろう。高村先生は例の手紙を取り出すと、三人を見た。
「菜乃花宛にフランスの国定図書館から手紙がきたんです」
「フランスの……?」
 目を微かに見開いた館長は、カップを置いて話を聞く体制に入る。
「一枚目はフランス語で、僕には自信がなかったのですが……」
「僕でよければ読むよ」
 そう言った荷風先生はその手紙に目を通し始める。高村先生は残りの二枚を館長に見せた。
「貴方と菜乃花宛です」
 その言葉に、館長がその手紙をひったくるように掴んだ。普段見られないような焦りを隠すこともせず。まさか、と小さく呟いた彼は手紙を見て眉間にシワを刻み、小さく悪態を吐く。
「……侵蝕されてるのか」
「ええ」
 高村先生の肯定の言葉に、館長は目を細める。何かを考えているらしい。手紙を読み終わった荷風先生と森先生が眉間に皺を寄せて館長に声をかける。
「館長、大変なことになった。先程話していた本の話だが、恐らくは侵蝕された可能性がある」
「話していた本?」
「ああ。どうもフランス文学で思い出せない作品があってね、森先生や館長と話していたんだ」
 荷風先生が眉間にシワを寄せて告げた。そして、酷なことをいうことになるが、と、前置きを置く。館長が戸惑いを隠さずに荷風先生を見る。僕と堀先生も荷風先生を見た。荷風先生はしばらく言葉を考えて――眉尻を下げて静かに口を開く。
「――菜乃花の父親はもう亡くなったようだ」
「そんな!」
 そう声を上げたのは堀先生だった。動揺を隠せないのは彼らしい。館長はただ目を大きく開いて唖然としている、恐らくは状況を読み込めてないんだろう。それは僕だってそうだ。菜乃花の父親が亡くなっただって? そんな馬鹿な。海外に行くという彼を僕はチラリとみたけれど、元気そうだった。病気だろうか。いや、事故か何かかもしれない。嘘だ、という言葉を紡いでくれると信じて僕らは森先生を見る。
「本当だ。彼と親しかった友人が彼の残した手紙を送ってくれたらしい」
 森先生の補足するような言葉に、僕は何も言えない。ただ、館長は何処か諦めたように片手で顔を覆って俯いた。何かを耐えるように。しばらくの沈黙の後、館長は口を開く。
「――あぁ、わかっていたんだ、本当は。アイツは筆まめなやつだから、返事がこないのはそういうことだろうって」
 館長の言葉が、くぐもって聞こえる。
 僕は知っていた。何度か館長が海外に向けて手紙を書いていることを。何時も何時も、誰に書いているか疑問に思っていたのだ。どうやら、館長は菜乃花の父親がどこにいるかは知っていたらしい。それでも行かなかったのは仕事があるからと、帰ってくると信じていたからだろう。菜乃花と一緒に。
「でも、信じたかったんだ。アイツが笑って土産を持ってあの子を迎えに来るんだと」
 自嘲したような、そんな声色である。顔を上げた館長の目元から涙が流れていた。
 菜乃花には? と尋ねたら彼に、堀先生は首を左右に振る。
「まだです」
「そうか……どうしたものかな」
 館長はそう言って黙り込んだ。気にしていないように。恐らくは、菜乃花の手前、しっかりしなければと思っているに違いない。
 この事実は、菜乃花の楽しみを落胆させる。父親との約束通りにずっと良い子で待っているというのに、あの子の父親は帰ってくることはない。でも、真実を告げなければあの子は待ち続けるのだ、父親の帰りを。それはどんなに悲しいことか。きっと見ていても痛々しく、ただただつらい物語になるに違いない。
 ――でも、どちらがマシなのだろう。「君の父親は死んだから帰ってこない」と残酷に告げるのと、真実を告げないで待ち続けるのは。
 僕はそっと手紙を見た。なのかさま、とひらがなで綴られた手紙。その一文字が今まさに黒く滲んだ。眉間に皺を寄せた森先生がつぶやく様に告げる。
「酷い終わり方だ」
 本当にそうだった。いや、恐らくは物語ならば物悲しく美しい話になるんだろう。しかし、現実ならばそれは酷い終わり方だろう。待って待って、その結果がこうなのだから。

 いつの話だったか、舞姫のあらすじを海野さんから聞いた菜乃花が森先生に詰め寄った事があった。その物語を幸せな終わり方にしてほしいという無茶なお願いに、あの森先生が困ったようにしていたのは記憶に新しい。どうして? と尋ねた海野さんに、菜乃花は頬をハリセンボンのように膨らませて答える。
「だって、菜乃花のパパとママのお話でしょう?」
 どうしてそう思うのか、と森先生が尋ねる。拗ねているけれど、菜乃花はきちんと答えた。
 ――だって、ママはパパと菜乃花を置いてそとのくににかえっちゃったのよ、と。
 その言葉に、森先生は困ったような顔をする。その後、菜乃花の為におとぎ話に作り替えていた。三人は幸せに暮らしました、で終わる話に酷く菜乃花は喜んでいたっけ。

 ああ、これはあの話よりももっと悲しい話ではないか。僕は何も言えずに目を伏せる。誰もがあの子の幸せを願ったはずなのに。こんな酷い結末になるなんて。

 現実は小説より奇なり、なんて言葉がある。でも、実際は「奇なり」だけじゃない。

 ――時に現実はどんな悲しい物語よりも残酷に、冷たく、人を蹴落とすのだ。

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