十七
――なのかさま。おげんきですか。ぱぱはげんきです。ぱぱはいま、ぎんがてつどうにのっています。いまからみなみじゅうじざというばしょにむかうつもりです。
ゆっくりと目を開けた菜乃花の視界に映ったのは、父親と泣いている伯父の姿だった。戸惑ったような父親に対し、伯父である館長は何度も謝罪の言葉をつげる。
そんな様子を見て、「ぱぱ、おじさんをいじめちゃだめ」というのは仕方なかった。きょとん、と菜乃花を見た二人に、菜乃花はのそりと起き上がると目をこすった。そして、首をかしげる。周りを見渡して、もう一度父親を見た。
「――パパ?」
「そうだよ、菜乃花」
そう優しく頭を撫でた父親は菜乃花を抱き上げると膝の上にのせた。館長は目元を拭うと、ソレを見て笑う。
「よかったな、菜乃花」
「うん! でも、またきしゃのなかにいるの?」
「……また?」
菜乃花の言葉に、館長が菜乃花を見る。そう言う夢でも見ていたのだろうと父親は苦笑いすると、首を左右に振った。
そこからまた、ぽつりぽつりと会話が始まる。昔の思い出話であったり、館長の近況報告であったり。菜乃花はそれを聞きながら、時々父親の手で遊んだり、話に加わったりしながら、窓の外を眺める。
例えば、図書館の現在の状況。文学の状況。そんな難しい話の間は菜乃花は父親の手で遊んだし、逆に毎日のことは菜乃花は嬉々と話した。毎日手紙を書いていること、父親に見てもらうための絵日記もつけていること。帰りをずっと待っていること。父親はその言葉に困ったような顔をした。それは館長も同じだ。でも、菜乃花はそれに気づかない。たくさんの話に、父親も館長も嫌がらずに耳を傾けた。
――一時間半だなんて時間はあっという間で、汽車は緩やかにスピードを落としていく。外からは美しい賛美歌が聞こえ始める。
「もうすぐか」
「もうすぐだ。やっぱり、この世界は美しい。いや、この世界だけじゃなく、文学そのものが美しい」
「ああ、俺もそう思うよ」
「フランスの方は、優秀な錬金術師が引き継いでくれた。今ならうまい酒が飲める気がするんだがなぁ」
「そうか、いつか手紙をかいて情報を交換するとしよう」
「ああ、そうしてくれ。日本の文学は頼んだぞ」
「俺は見守るだけさ」
「それでも兄弟、お前は責任者だろう」
父親はそう言って笑う。館長は頬をかいて、まあ頑張るさ、とうなずいた。
「まもなく南十字座――」
そのアナウンスに父親が菜乃花を見た。
「――あのね、菜乃花。パパはやっぱり、南十字座でおりなきゃいけないんだ」
「菜乃花もおりる!」
「それはいけない。菜乃花は降りてはいけないよ。菜乃花がおりることが出来るのは、もっともっと、大人になってからだ」
そう窘めた父親に、菜乃花は首をかしげる。
「どうして?」
「ううん、難しい問題だ。いいかい、菜乃花。この列車の切符は何時しか誰もが手渡される切符なんだ。その時間はまちまちだ。パパのような年で渡される人もいれば、おじいちゃんとおばあちゃん、はたまた、菜乃花より小さい子だって、偶に手渡されることがあるんだよ」
「どうして菜乃花にはないの?」
「まだその時じゃないからさ」
父親はそう言って菜乃花の頭を撫でた。
「いいかい、菜乃花。おじさんや文豪さんの言うことはよく聞くんだよ、偶に困らせるのは良いけれど、困らせすぎてはいけない」
「ん、いつもそうしてるよ」
その返答に館長は苦笑いした。偶に、ではないそれであるが、文豪や司書達が笑って許しているのだからいいのだろう。今のところは、ではあるが。
「――菜乃花、ごめんね」
「どうして謝るの?」
首をかしげた菜乃花に、父親は菜乃花を抱きしめた。
「何時か君が真実を知ったときの為だ。馬鹿な父親でゴメンな。どうしてずっとそばにいてあげるという選択をしなかったんだろう。どうしてお前と一緒に待つという選択をしなかったんだろうか。安直な行動の結果、菜乃花を置いて行ってしまうんだ。菜乃花を一人置いて、遠いところへまたパパは旅立ってしまうんだ」
くぐもったようなその声に、菜乃花は不思議そうに父親の顔を覗こうとする。それは叶わないのだけど。
「――あのね、パパ、菜乃花、ひとりじゃないよ」
菜乃花はそういって父親の背中を小さなその手でさすった。
「おじさんがいるもん」
「うん」
「けんちゃんも、なんちゃんも、たっちゃんも、たかむら先生もいるよ。それに、きーんに、れんこちゃんに、りょうちゃんに、あずも、あずまさんもいるから、菜乃花はひとりじゃないよ」
「――そうか」
「それに、また、おてがみかくよ! パパがさみしくないように! いまね、ノートに日記つけてるのよ! パパが帰ってきたら、みせようとおもって!」
また花が咲くように笑った菜乃花に、父親は言葉を詰まらせる。
「菜乃花、僕はね」
「菜乃花、まてるよ、今までどおり、いいこでまてるよ。きっぷ、くるまで、まてるよ」 そう言いはするものの、ぽたりぽたりとこぼれた涙。館長は何も言わずにめをふせ、菜乃花は父親を見上げた。
「でも、いっちゃやだぁ、」
「菜乃花」
「菜乃花もいきたい、菜乃花もいく」
菜乃花の言葉に、父親が窘めるように口を開く。
「菜乃花、わがままはダメだ。僕は降りるから」
止まってしまった汽車に、父親は菜乃花を館長に渡した。やだやだと泣く様子は、男が海外へ向かったときと似ている。違うのは、今回はもう帰ってくることがないとわかっていることだろうか。乗降の扉に向かった男に、館長は告げるべき言葉を必死に探した。
扉に近づいた父親は、その近くの席に座っていた高村達に気づくと頭を下げた。
「菜乃花を頼みます」
「――できるかぎりは。僕らもいつまであの子のそばにいるのかわからないけれど、できる限りは一緒にいます。貴方の代わりに」
「ええ。頼みます。できる限りでも、オレよりはきっと長いだろうから」
そう笑って見せた父親は、汽車から降りようとした足を止めて、ぽつりと口を開く。
「――娘は、僕を許してくれるだろうか」
その問いに高村はそっと目を伏せた。
「――ええ、きっと、あの子は優しいから、許してくれるはずです。この物語を理解できる年になったとしても」
高村の返答に、父親は外へ足を踏み出す。真っ白の世界だ。美しい賛美歌が聞こえる。人が少ないのは恐らく、この列車が特別だからだろう。父親はそんな世界に降りたって、その汽車を見上げた。顔を覗かせたのは宮沢と新美だけでなく、他の文豪や司書達もである。その中でも、窓を勢いよく開けた館長は、列車を見送ろうとする父親を見た。
「勝手に菜乃花を嫁にやっても嘆くなよ、オレが認めた男だろうからな!」
館長の言葉に、父親は少し目を見開いて少し笑いながら口を開く。
「はあ? お前が認めてもオレが認めるかどうかはわかんないだろう。求婚者は片っ端から追い返せ」
「できたらの話だな。俺も時期にそこに行くだろうが、まぁ、元気でやってくれ」
「――お前も、元気でな」
「ああ、大丈夫さ。やってみせるさ。この子の未来のためにも、文学のためにも」
館長の言葉に、父親は自嘲したように告げた。
「どうか、そのまま穏やかに過ごしてくれ。オレのために怒らなくて良いからな」
「どういうことだ?」
「――いや、気にするな」
発車を告げるベルが鳴り、汽笛が鳴り響くと列車が徐々に動き出す。
「じゃあな、」
「ああ、」
「図書館で待っててやるから、菜乃花と。『夏休み』くらいは顔出せよ」
「西洋の価値観に似た世界に、仏教の価値観を持ち込むなよ」
そう呆れた父親は汽車にそうように歩き出す。館長は菜乃花を抱え上げた。
「ほら、菜乃花も」
「ぱぱ、おてがみ、かく」
「――ああ、まってるよ」
「ぱぱ、あのね」
「うん」
「いってらっしゃい!」
その言葉に、男は大きく目を見開き――笑んだ。
「いってきます」
大きな汽笛が鳴り、列車のスピードが上がる。駅の端までいくと、父親は列車が遠くに行くのを見送った。その姿が見えなくなるまで、ずっと。
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