十六



 ――耳障りのよいピアノの音が聞こえたとおもえば、世界の景色が変わっていた。天を仰げば満月であることがわかる。あまりにも美しい景色が広がるその場所はあの庭と似ていた。ただ違うのは人があまりにもいないことだろうか。がらんとしたその空間は美しいが廃墟にも似た物を感じさせる。
 不意に、佐藤さん? とか細く自分を呼ぶ声が聞こえてそちらを見る。そこにいた司書は泣きはらしたような青い目でこちらを見ていた。隣に並ぶのはあの陸奥守とよばれた青年だろうか。彼はそっと息を吐く。
「よかった、成功したみたいじゃな」
「ああ、そうみたいで俺も安心してる」
「まだまだ本番はこれからやき、気ぃ引き締め」
 そう告げた青年に、ああそうだな、とうなずく。遼が俺と青年を見比べた。恐らくは何も知らないんだろう。不安げに遼はあの青年を見上げる。
「むっちゃん?」
「主、戻るぜよ」
「どこに?」
「みんながいる場所ちや」
 明るい笑みだ。遼はただただ目を見開いた。
「でも、」
「大丈夫じゃき、佐藤がいる。わしもいる」
 兄のようだとおもう。あの狐面をつけた青年が実の兄だろうが、その兄よりも本当の家族のようだ。ただその様子を見ていれば不服そうに青年が俺を見上げた。
「佐藤もなんか言っとうせ」
「帰るぞ、遼」
 そう彼女の手を引く。つられて立ち上がった彼女は目をパチパチと瞬かせた。此処は彼女の本来の家なのだろうか。人の気配が全くないが、彼女の家だというのなら彼女の両親がここにいるはずである。無言で連れ出して良いものか。総当たりを見渡していれば、庭の奥の方から砂利をふむ音がした。そこには男がいる。青い目をしてスーツのような服を着こなした美丈夫だ。遼と同じ瞳の色をした彼は俺と遼を見て口を開く。
「――、いってしまうんだね」
 紡がれた名は聞こえない。いや、聞こえはしたが、それは音が抜けたように記憶にとどまらなかった。彼は少し遼に近づくと、彼女の目線に合うように屈んで抱きしめた。その様子に嗚呼この男が父親なのかと理解した。何かに耐えているような、心配しているような。そんな入り交じった表情をした彼になんと声をかけた物だろうか。娘さんは大事にします? まるで嫁を迎える前の男の言葉である。奥からもうひとり、からころと下駄を鳴らして女性が駆けてくる。白い着物を着た女性は俺を見て「あらいい男」とあっけらかんとわらったが、すぐに遼を見下ろした。
「遼、女は恋にいきる者よ。そしてそれは家族よりも上回ることがあるわ。私がそうだったようにね」
 悪戯っぽく笑った彼女に未だなお男性に抱きしめらている遼は彼女を見上げる。彼女は愛おしそうに遼の髪をすいた。
「大丈夫よ、貴方は、大丈夫」
「ああ、だいじょうぶだ、だいじょうぶだとも」
 それは本当に遼に向かってつぶやかれた言葉だろうか。自分たちに言い聞かせるようにも聞こえる。ゆっくりと体を離して立ち上がった男性は俺を見る。そして言葉を紡いだ。
「むすめをよろしくたのむよ。むつのかみくんも」
「――ええ、まかされました」
「わかっとるき、大丈夫じゃ」
 俺たちの返答に彼は満足したようにうなずくと、すっと庭のおくを指さした。
「みちはこのさきのもんをくだるだけだ。けっしてふりむいてはいけないよ。ふりむいたらさいご、むすめはきみたちのいるばしょににどとかえれない」
 まるで神話のような言葉だ。そして、それは狐面の青年にも周りにも言い聞かせられた言葉である。振り返ってはいけない。それはもう充分に理解していた。
「肝に銘じておきます」
「あと、もうひとつ。もとのばしょにもどったら、むすめのなまえをよんであげてくれ」「名前? しかし、私たちは――」
「いいや、きみのしる、このこのなまえさ」
 そう優しさを目に滲ませて告げた男性に、俺はうなずいた。遼は最後だと言わんばかりに両親に抱きつく。その行動に目を見開いた二人だったが、小さく「いってきます」と告げたことで穏やかに笑う。
「いってらっしゃい」
 その言葉を聞いた遼は震える手で俺の手を握った。反対の手を陸奥守とよばれた青年が掴む。
「佐藤、行くぜよ」
「ああ」
 そういって庭の中を進む。そしてたどり着いたあの大きな門の先に目を向けた。その先は石で出来た階段だ。何処までも暗い道である。大きく息を吸って遼を見下ろす。また来ような、などというみじんも思っていない言葉を継げれば彼女は大きく目を見開いて、うなずいた。ソレを確認して足を一歩、門の外に踏み出した。


 周りは暗いが、足下だけが照らされたように明るい。手を引いているはずなのに、その手は存在しないように感じた。足音も聞こえない。ただひとり、暗い闇の道を歩いているような感覚である。

 ――振り返ってはいけない。

 話しかけても彼女は返事をしない。まるでそこにいないように。いないのでは、と芽生えた心を制するように、足を進ませる。隣を行く男もいない。恐らくは付喪神だからだろうか。
 誰もいない道を駆け下りるように進む。でも急げば遼は転けてしまうだろう。

「もし、」
 無心におりていた時だ。何分なのか、何十分階段を進んだのかはわからないが不意にである。不意に後ろから声をかけられたのは。振り向かなかった自分を褒めてやりたいくらいである。その声を無視するように歩いていれば、また声が聞こえた。そして足音も。なるほど、二つ目の門をどうやらくぐったらしかった。
「くろうてやろうか」
「ひとのこがかみのこをつれておる」
「うまそうだ、うまそうだ」
「して、あれはまことにひとのこか」
「かまわん、どれもうまいにきまっている」
「おうおう、つくももおるわい。どれ、くろうてやろ」
 おぞましい会話だ。まるで怪談話である。少しずつ迫ってくる足音に、こちらも速度を上げなければならいだろう。
「陸奥守、遼、走るぞ!」
 当然ながら声はない。不安であるが、振り返ってはいけないのである。そのまま速度を徐々に上げる。不気味な声は「にがすな」といって足音を荒くして追いかけてくる。体力は持つのだろうか。そんなしんぱいをしていれば、ふいに頬に傷が出来た。遼は大丈夫か、と振り返りそうになって、慌てて止める。ぴしり、ぴしりとあちらこちらに傷ができる。
「ひとのこじゃない」
「うええ、まずい、すみのあじ」
 俺の血を呑んだのだろうか。なめ取ったのだろうか。まずいまずいと騒ぐ奴らに混じって、うまいという奴もいる。そして、その中の一人が叫ぶようにつげる。
「おい、もうぬけてしまうぞ、みなのども!」

――あ。

 最後の声は随分間抜けな声だった。こちらに戻るように言う言葉を無視して足を進めれば、手に感覚が戻った。怪物舘乃諦めるような声が聞こえ、それは遠くなっていく。しかし、その代わり聞こえたのは「いたいよ」という遼の声だ。
「いたい、いたいよ、」
 傷を負ったんだろうか。ひやり、といやな汗が背中をつたった。遼は自分より後ろにいるのである。ならば、恐らく。そして、うまいとだれかがいっていた。では、もしかして、彼女は。
「主はいいこじゃのう、ほうら、いたいいたいのとんでけ、じゃ」
 その声にはっとした。「佐藤、振り向いちゃいかんぜよ」と窘めるような声が聞こえて「ああ、悪い」と言葉を返した。視界の端にオレンジ色の着物がひらひらと見える。どうやら陸奥守もまた姿を現したらしい。
「いたいよ、むっちゃん、いたいよう」
「遼、」
「どうしてひどいことするの、かかさまとととさまとやっとあえたのに」
 その言葉はグサリとナイフのようにえぐった。頭の中に、遼の言葉が浮かぶ。
 ――私は十数年待ち望んだ人と会えるのです。
 これは俺たちのエゴではないか。あの兄だという青年の。この子にとっての幸せはあの世界で過ごすことなんではないか。あの子は本当にこんなことを望んでいるんだろうか。陸奥守がまた口を開く。
「主の為じゃき。それに、わしらは家族みたいなモンだったはずぜよ」
「どうせふたりもおいていくんだ、――くんみたいに」
「わしは置いていかん。おいていくのは何時も主のほうじゃ」
「いくらいいこにしてても、おいてくんだ」
 後ろの速度が下がる。それに合わせてこちらの速度も下がる。泣きじゃくる子供の手を引くように、ゆっくりとした歩みになった。遼は子供だ。それは俺たちの会派しかしらないことかもしれない。この子は「まだ」子供である。姿も対応も大人だ。だから周りは彼女を他の司書と同じぐらいの年だと思うのである。でも、彼女はそういった外側だけが大人になってしまった子供だ。ただしくは、子供でいられなかった子供のなれの果てなんだろう。
 ――だから俺たちはこの子の手を引いてしまうのだ。大人の役目だといいながら。牧水さんは彼女を見守っている。森先生は彼女に助言をする。そして、菊池は彼女を甘やかすのだ。でも、おまえさんのそれは建前だな。牧水さんが頭の中で俺にそう告げた。彼女が泣いている。振り向いて、抱きしめてやりたい。
「みんなぶきみだっていうんだ。ひとじゃないって。かみさまじゃないって。ちがうって。きもちわるいって。さとうさんたちだって、きっとばけものだって、いうんだ」
「俺たちはそんなこと言わない!」
 そう声を荒げる。振り向きそうな自分を正す為に。でも、彼女が泣いている。心臓が締め付けられるような感覚がする。
「お前は化け物なんかじゃない。お前は今をいきる人だ」
 嗚呼彼女が泣いている。今振り向いて仕舞えば、おそらくは化け物がいるのだろう。あの神話のように。
「わたしひとじゃないもん」
「いいや、人だ。化け物は――俺たちの方だ」
 そうつぶやくように告げる。今をいきる彼女が化け物であるならば、とうの昔に死んだはずの俺たちは何になるのか。墨の味がする血が流れるこの体は何になるというのだろうか。諭すように口を開く。
「遼は遼だ。化け物でもない」
「でも、でもね、としをとらないんだよ」
「ソレがどうした。俺だって多分年を取らないぞ」
「ひとじゃないんだよ」
「奇遇だな、俺もだ」
「へんなものだってみえるんだ」
「そうか、今度どんな物が見えてのか教えてくれ。小説の題材にする」
 そう返していれば、隣にいた陸奥守が吹き出した。
「主、大丈夫ぜよ。佐藤は主を嫌わん。嫌う理由がなさそうやく、むしろ」
「ああもううるさいぞ、陸奥守」
「わしはなんもいっちょらん〜」
 そう囃し立てた陸奥守にそっとため息をついた。ぐすぐすと遼がなく声が聞こえる。ああ、これではまるであの弟子と会話しているようだ。
「あのな、遼。俺が人じゃないことなんて、お前が一番わかってるだろ」
「でも、おいていくんだ」
「おいていかない。俺はお前をおいていかない。おいていくはずがないだろう? おいていくとすればお前だ、お前なんだ。俺はお前のそばにいてやる。涙だって拭いてやる。だから、何も心配するな。お前が俺をおいていくまで、俺が守ってやるから」
 不意に体が淡く光る。恐らくは潜書が完了扱いになるのだろう。そして、行き止まりが見えた。しかし、不意に横から光が差す。その先に行た三人に掴んでいた手を思いっきり振った。すると遼と陸奥守は俺の体の横をすり抜け――扉の先に行た菊池と牧水さんにぶつかった。ピアノの音色が響いて周りにミミズが這ったような文字が宙に舞ったと思えばまばゆいばかりの光があたりを照らす。目をぎゅっと閉じて――開いてみれば見慣れた司書室だった。
 俺を見て体を揺らした周りをかきわけて、騒ぎが聞こえている扉までまで進む。騒ぎの中心、遼を見下ろせば色が真っ白だ。まるで死人のような――。息を切らしたボロボロの陸奥守が口を開く。
「佐藤、最後の仕上げぜよ」
その言葉を最後に陸奥守は音を立てて床に落ちた。いや、正しくはあの青年が消え、青年だったのだろう刀が床に落ちた。遼に近づく。そして、俺は彼女の名を紡いだ。
「――おかえり、遼。海野遼」
 その瞬間、彼女灯った色は。

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