十三
按司隼人という人物は厳密にはこの世に存在しない。なぜならそれは日本政府が作り上げた登場人物(そんざい)だからである。しかし、その始まりは呆気ないものであるらしい。青年に渡されたのは薄っぺらな紙――一枚の経歴書だった。どこで生まれてどう過ごしてきたかが書かれているその紙を彼は摘みあげる。隼人という名前は随分と昔に捨てた名前だった。だからこそ、青年は椅子に腰かけた男をみた。相変わらずこの男は多忙らしい。机の上には書類が高く積まれていて、男が青年を見る気配はない。
「……なんですか、これ」
青年の問いに男は答える。
「もうすぐしたら別の部署が立ち上がる。お前はそこに潜入しろ」
「いつからです?」
「まだ先だ。だが、確定したものでもある」
男はやはりチラリとも青年を見ることもない。あいも変わらずこの国の裏方、その五本指に入る人物――石清水と呼ばれる彼は忙しそうだ。彼の元に引き抜かれて――配属されて五年ほどになるが、この人物が休んでいるところなど見たことがなかった。それは自分にも言えることかもしれないが。
「まだ先ということは、まだいいのでは」
「休暇だ」
そう言って石清水はようやく青年をみた。眉間にシワを寄せた彼は口を開く。
「お前、もう随分と働きづめじゃないか」
「まぁ……休みにやることがないですし?」
「だから大学生をやらせてやると言ったんだ」
石清水は呼んでいた書類を束ねて箱に入れる。その瞬間燃えてなくなった書類に、機密事項だろうかと青年は現実から逃避するように思う。石清水がソレを見て、呆れたようだった。師弟そろってお前達は、と苦言をこぼした彼に青年はなんとも言えないが。石清水はため息をついた。
「言っておくがこれは列記とした任務だ」
「任務? なら、使命は?」
「数年後に発足される特務司書に選ばれることだ。だから、できるだけ本を読んでおけ。お前は文学に疎すぎる。文学に疎い人間が特務司書に選ばれるなどまずあり得ん。だから大学生に擬態しておけ。それと――」
石清水は青年に説明をする。青年はその言葉に、佇まいを変えた。面倒臭そうに頭を書いた彼は、石清水を見る。
「わかりましたよ、按司隼人として生活すりゃあいいんだろ」
はぁ、とわざとらしくため息をついた青年――按司隼人に石清水は口角を上げて見せた。
「飲み込みが相変わらず早いな。――いいか、陽炎」
「……なんです?」
「別の派閥には注意しろ。そして、できるだけ按司隼人のまま生きろ」
彼はそう釘をさすと話はこれまでだと言わんばかりにまた書類に目を移した。その姿が、按司が最後に見た石清水の姿だった。
「――陽炎」
そうかけられた言葉に、陽炎は男をみた。按司隼人になれ、と言われた上司――石清水が消えた後変わるように出てきたのがこの男――志免という人物だった。二人は別の派閥とも言えようか。水と油というか、正反対というかそんな関係だったのを陽炎は覚えている。付け加えるのなら体型も、だが。
表の政権が変わるごとに、政府の裏側に位置するこの組織のトップも変わる。長らくこの国の首相があの上司――石清水を気に入っていたが故に変わることはなかったが、新しい首相が別の派閥の男――志免をこの組織のトップに担ぎ上げたのだ。そうなって仕舞えばこの裏側の組織は忙しいとしか言いようがなかった。今までの体制が変わる、今まで敷かれていた任務が変わる、消えた石清水に忠誠に似た感情を抱いていたものは逃げる――その後処理と新しい仕事が同時にやってくるのだから。
陽炎が任されたのは紛れも無い新しい仕事、だろう。この男は愛国心の塊であると言っていい。いや、この組織には愛国心の塊のような人物が山ほどいるが、この男ほど滑稽で無いのは確かだ。しかし、ある意味、負の物を利用しているあたりはそこまで無能ではない。それが制御できるかどうかは、別として。
「侵触というものは利用できる」
「そうでしょうか。コントロールできないものですから、あまりそうとは言えない気もしますが」
陽炎はそう答える。それは事実だ。コントロール出来る物であれば、確かに使える物だろう。日本の縦軸――つまりは時間を管理する審神者のことであるが――が気づかなければその改変にも似た行為は恐らく誰にも気づかれていないのである。この組織が把握しているのもまた、縦軸に潜入している忍が把握しているからに過ぎないのだが。
陽炎の指摘に志免は笑って陽炎を指さした。
「その為の特務司書(お前)だ」
「……では、あの図書館の面々は」
「協力をする人間は残せ。それ以外はいらん」
「縦軸が一人」
「関係がない。現在で死んでもそれは未来への改変にはならんよ。ルール破りではない」
男は面白そうに笑った。陽炎もまた笑みを浮かべる。
「では、ご命令をといいたいですが、ここは一つこうしてみませんか」
一種の賭けでもあるとあの作家は告げた。しかし、按司隼人は理解している。この男はおそらく食いつくだろうし、否定することもない。むしろ、乗っかかるような人物だ。志免という男が長らく政治家に擬態していたからもあるだろう。時間を稼いでしまえば、後は何を考えているのか調査してもらえばいい。そちらもまた、一か八かであるが。按司隼人は笑みを浮かべる。陽炎のような笑みを浮かべる。そうして口を開くのだ。
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