序章(3)

 とりあえず小説の詳しい資料を取りに契約したままになっている部屋に入る。ポストに入っていた手紙と資料を空になっていた鞄の中に突っ込み、その部屋を後にした。
 電車で一駅。徒歩十五分。普段暮らしている部屋に帰り、朝に干した洗濯物を取り込む。掃除をしたい衝動に駆られたが、そこに手をつけると作業が進むことはないので堪えどころだ。幸いなことに私の執筆部屋となっている部屋はほとんど散らかっていない。さて、執筆するか、と息を吐く。後三分の一を埋めるのに、どれだけ時間がかかるんだろうか。

 ――何も復讐の衝動を完全に止められた訳ではない。私はいつもそのトリガーに指をかけている。昔のことを思い出しては、あの事件やその後の事故を思い出しては、引いてしまいたい衝動に駆られるのだ。そしてそれを収める方法もわかっている。そういう時は実銃からおもちゃの銃に持ち変えるのである。そう、現実から非現実に落とし込むのだ。小説という形にして仕舞えば現実で人が死ぬことはない。現実で人を殺せば犯罪者となるが、原稿用紙の上で人を殺しても犯罪者になることはない。それに、小説となってしまえば文芸という一種の芸術になり、評価されてしまうのだから。

 何時間たったかはわからない。たまに視界の端に置かれている軽食を食べ、コーヒーを飲む。
 何日たったかはわからない。物語にのめり込むというのはこういうことなのだろう。
 最後の一行を書き上げて顔を上げる。窓の外が暗いのを見ると、夜だろうか。どっとおそってきた疲れに椅子の背もたれにもたれて目を伏せる。しばらくすれば誰かが部屋に入ってきて、ため息をつくと私を抱え上げた。慣れている動作だ。私を運ぶ人間は別の部屋に入り、私をベッドの上に寝かせると首元のボタンを外す。小説ならば此処で彼は私を殺すだろう。いや、吸血鬼のように血をすするかもしれないし、甘ったるい小説のように愛を囁くかもしれない。彼は少し躊躇したように私を見下ろしているようだった。まぁ、何かをすることもなく願望に似た思考をため息で逃したらしい。彼がとなりで横になった気配がする。おやすみ、と聞こえた声に、ああ家に帰ってきたのだと安堵した。

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