RE:カルペディエム 02『現実』
自分にとってその人物は、アイドルのようなものだ。テレビ画面の向こう側に存在し、病室に籠もる自分との接点などまるでない。海外に所属している関係でダイジェストでしかプレーをあまり見ないから余計だろう。ひっそりと病室で毎日を過ごす俺とは違い、青を纏うその人は、その一身で期待や注目を浴びその舞台に立ち続けるのである。
フットボールが好きか嫌いかといえば、どちらかと言えば好きだ。恐らく自分が病気がちでなければやっていたとは思う。もちろん天才を自負する彼のようにはなれないだろう。自分がああなれると思うこと事態が烏滸がましくある。年に何度この病院で過ごしているかなんぞもうわからないことではあるが、それほどまでに自分の体は他とは違った。弱かったのだ。とても。
――それってさ、多分君の勘違いじゃない?
そう言ったのは苗字ナマエという人だった。フットボールがやけに詳しい彼女は病室で一人試合を眺めていた俺に声をかけたのだ。不審者かと思った、というのは彼女には黙っておいた方がいいことだろう。今は同じ病室に集まってフットボールを見たり、フットボールについて話したりしている。
「ハナちゃん……花森圭悟って今はああだけど最初はガリガリだったよ」
彼女はそう言って花森圭悟のリプレイ画面を見つめる。俺は彼女を見上げた。花森選手がガリガリなんてあまり想像がつかない。
「持田蓮がガリヒョロって揶揄ってたもん」
彼女の言葉に最近隣にやってきた同い年は吹き出した。同い年だからと看護師や保護者によって開けっ放しにされたカーテンのその先にあるベッドである。ガリヒョロ、とツボに入ったらしい彼は雑誌で顔を隠して震えている。そうしてついにケラケラと笑った。苗字さんは彼を見て不思議そうにする。
「マジで!? ガリヒョロ!?」
「君新顔だな?」
苗字さんはそう言って隣を眺めた後、首をかしげた。
「あれ、君高校選抜じゃなかったっけ?」
「なに、おばさん、俺のこと知ってんの?」
涙を拭った彼に、苗字さんはがっくしと肩を落とした。おばさん、と繰り返した彼女に俺はそうではないと首を左右にふる。
「苗字さんは違う、若い」
「いいよいいよ、長谷くん。28は見方によればババアだから。すっごい癪だけど」
彼女はそう言って隣にいる人物をみた。俺は彼女に問いかける。
「苗字さんの知り合い?」
「いや……長谷くんはあんまり同い年くらいのフットボールみない?」
「見ない」
「そかそか。アイツ、君ぐらいの年代で一、二を争うくらいフットボールがうまいよ。都内の有名強豪校のエース」
彼女は指を差しながらそう告げる。指差すな、ババアと言った隣は眉間にシワを寄せた。多分彼にとって触れられたくない話題なのだろう。なんでも事故にあったらしい。らしいと言うのは隣で交わされる会話を聞いただけで本人の口から直接俺が聞いたことではない。ただ、時折隣の両親がやってきては、大人がやってきたは、一方的に隣が怒鳴っている。そして、訪ねてくる人は自然とその話題に触れなくなったのだ。隣は雑誌を苗字さんに放り投げた。綺麗にキャッチした彼女に、隣は口を開く。
「もう俺サッカーやめるし」
「は? なんで?」
その返答はない。苗字さんはしばらくそれを見つめてから手元の雑誌をみた。持田蓮の特集が組まれているのが俺からも見える。苗字さんはふぅんとだけ告げて、そうして隣の背中に声をかけた。
「諦めることは悪いことじゃないと思うけど、君が好きなその人は諦めるような人ではないよ」
彼女はそう言って俺も見る。花森圭悟もね、と言った彼女は少し考えてから口を開く。
「私の将来の夢、言ったっけ?」
「? 聞いてない」
「思いっきりフットボール――サッカーしたいんだよね!」
そう言って彼女はケラケラ笑った。俺は首を傾げる。思いっきりフットボールだなんて大の大人が描く夢ではないからだ。
「思いっきりフットボールを?」
「そうそう。ちょうど十年くらい前に死にかけたんだよね。心臓止まってアメリカで手術を受けたのにさー、リハビリしても治んなくて。そこで一回諦めたんだよね。フットボールやってる幼馴染みと音信不通になったりしてさ。もう近年中に自分は死ぬんだって漠然と思ってさ」
彼女はそう言って、いやー、今思うと悲劇のヒロイン思考だったな、と面白おかしく笑った。そんな昔がただただ面白いと言うふうに。
「でもさ、なんていうか、今年幼馴染みに十年ぶりに会ってさ、話してたらやっぱりフットボールやりたくなって、最手術受けて今。頑張りつつも安全にリハビリの負荷上げてるとこ」
彼女はそっと目を伏せた。浮かべたのは自嘲的な笑みである。普段は浮かべないような、俺は初めて見た笑みだった。
「――私は病気を理由に諦めたことを後悔してるから、君たちには同じ後悔はして欲しいな。時間は取り戻せないから」
そんな言葉を聞いて、俺は彼女になんて返せばいいかわからなかった。俺はあきらめたのではなく、最初から無理だと思っているからだ。ちょっとした沈黙を切り裂いたのは、顔をのぞかせた看護師である。看護師が苗字さんと小さく彼女を呼んだ。いつものようにフランクな感じでなく、緊張したようにガチガチに固まっている看護師の方に彼女は振り返る。
「はい?」
「お見舞いに……」
看護師はちらりと後ろを見た。後ろから顔を覗かせた人物は双方サングラスをかけて、マスクをつけて顔を隠している。背の高い、がっしりとした人だ。今まで見たことがない人である。誰だろうか。しかし、その疑問はすぐ解決することになる。そのうちの一人が彼女の様子を見て、肩を震わせ、笑い出したからだ。
「ぶっは、お前何!? 喪女だと思ってたけど、ショタコンだったわけ!?」
ケラケラと笑う声は聞いたことがあった。近くで聞いたことはないが、何度もテレビで聞いた声だ。苗字さんはそんなことを気にもせず、眉間にシワを寄せた。
「不名誉なイメージやめてほしい。違う」
「この部屋に通ってるらしいじゃん。動かぬ証拠じゃね?」
「馬鹿、この二人がフットボール好きだから話してんの」
「……おい、病室なら、静かにするべきじゃないのか」
そんなやりとりをする三人に俺は手元のタブレットと二人を見合わせる。隣を窺えば、目を見開いて彼らを見た。一人はズカズカと中に入ってきて、もう一人はため息をついて入ってきた。ご丁寧に開けっ放しだった扉を閉めて。それを確認して彼女は口を開く。
「というか、有名人がアポなしで来るのやめなよ。連絡くれたらちゃんと個室の病室に篭もってんのに」
「連絡いれた」
「うそ、いつ」
「三分前」
「三分前って絶対到着して私の病室が空なの確認した後じゃん! それはちょっと無理だなー」
苗字さんはケラケラ笑った。三分前は隣から蓮の特集した雑誌が飛んできたら無理だなー! と。それを聞いて今度は花森圭悟が「俺は十分前に連絡した」とボソリと告げた。苗字さんはそれを聞いてまるで子供のようにケラケラ笑った。
「十分前はハナちゃんがガリヒョロだった話してたから気づかないなー!」
「なっ……!! な、なんで日本のエースのそんな昔の話をする……!」
「日本のエースは俺だから。お前に番号貸してやってるだけだろ」
「ち、ちが、」
「違うくない。次のワールドカップは俺が10番だから」
そんなやりとりに苗字さんはよほど面白かったのか爆笑している。花森圭悟がそんな彼女を恨めしげに見下ろした。彼女は涙をぬぐいながらそれを見上げる。
「今の10番はハナちゃんって言えるけど、未来のことはわからないなぁ。でもまぁ、世間的には君は日本代表の10番」
そう言って苗字さんは俺のサイドテーブルに載せられた写真を指差した。それを見て、二人は正反対の反応をしめす。
「ほ、ほらみろ、持田」
「ハナのファンなの? 変わってんね」
「この少年は、か、変わってなどいない……!」
「これの何処が好きなの?」
持田選手はそう言って花森選手を指差した。花森選手の何処が好きか。そう問われてサッカーが上手いところとありきたりな言葉を呟く。それだけではないのだ。自分と彼は違うのだ。だから憧れた。
「諦めないところ」
それだけでもダメだ。それなら、もう一人だっていいはずなのだ。もう一人の方が諦めないことの代名詞だろう。
「強かなところとか、我慢強いところとか」
そう彼は強い。俺の心も体も見たまま弱いのに、彼は見かけによらず強い。負けたって次に繋げる。どんな中傷だって背負うのだ。あとは、あとは。でも、やっぱり。
「日本で一二を争うくらいすごいフットボールが上手いところ」
「……あ、当たり前だ、おれは日本で1番天才」
「お前は俺がいる限りどうあがいても2番手だよ」
「はいはい。二人セットで1番ってことでいいじゃん。ハナちゃんせっかくだしサインあげなよ」
「……ペンがない」
「私持ってる」
そう言って苗字さんは胸ポケットからペンを取り出す。それを受け取った彼は少し考えてから持っていた鞄からボールを取り出した。
「あ、私が頼んでたボール」
「……ナマエにはまた持ってくる」
花森選手はそう言ってボールにサインを書き始める。それを見た持田選手が俺に問いかけた。
「ハナが好きってことはサッカー好きなの?」
「はい。まぁ、俺は見る専門ですけど」
持田選手の問いかけにちらりと隣を見る。隣にいる彼はあいかわらず固まったまま様子を見ていた。その視線を追って持田連は少し目を細める。花森圭悟はそんな様子を見ながら俺にボールを渡す。俺はそれを見つめた。
「き、きみも強くなれる。誰よりも、こ、困難に立ち向かっているから……きっと、大丈夫だ。この、花森の言葉を信じれば……」
俺は彼を見上げる。強くなれるだろうか。誰よりも困難に立ち向かっている。本当だろうか。――大丈夫。親からも医者からも何度も聞いたことがあるはずの言葉だというのに、もう信じることもない言葉だと思っていたのに。日本のエースである彼がそういうのであれば信じれる気がした。俺は小さくうなずいて、そのボールを抱きかかえる。彼はそれを見てふっと小さく笑った。