Tell me your name.
――私の名前を呼んでほしい。そう願ったのは何時だったのだろう。周りの子供が親や大人たちに呼びかけられる愛称。私にも昔は確かにそれはあって、でもそれは何時しかなくなってしまった。自分の名前が何なのかを私は知らない。それはあの森の中にあった発見された白骨化死体とは真逆だろう。誰だかわからないような彼女にはきちんと名前があるのだ。
彼女の名前を名乗って生きていたのは『私』であったのに、一枚のカードが私の手元にあるだけで『私』が生きた形跡ではなく『彼女』の生きた形跡になっていく。結局私はずっと『透明人間』にかわりなかった。敷島麗華として生きる前も、彼女の代わりに生きた間も、これからも。
「日本には約一万人、君のような人がいると言われている」
安室さんはそう言って私の前の席に座っていた。詳しいんですね、といえば大学にいた時に勉強していてね、と彼は返した。
あの夜、工藤先生はすぐに警察に連絡した。私が最後に目撃した場所からは少し離れた場所で彼女は見つかったらしい。すぐさま警察による彼女についての調査が始まり、私は第一発見者というよりは目撃者として聴取されることになった。でも、聴取する刑事さんも困ったようである。『敷島麗華』と名乗っていた私がどこのだれかわからないからだ。調べても私のことが何もわからないからだ。その時、間に入ってくれたのが付き添ってくれていた工藤先生と安室さんだった。そうして私に対する聴取の後、工藤先生は警察の人に呼ばれ、私は彼と一緒に彼のバイトする喫茶店に戻ってきたのだ。
「一万人?」
「ああ、少数だけど、この国には確かに君のような人はいるんだ」
「意外といるんだ、透明人間」
私の言葉に彼は目を瞬いた。「透明人間、か」とつぶやいた彼は「的を射ているね」とつぶやいた。
「さて、端的に言って君がしたことはある種の詐欺のようなものだ。許されるものではない」
「――うん」
「でも、君の事情が事情だ。情状酌量の余地もある。でも、それを警察達と話す前に君は『透明人間』をやめなければいけない」
その言葉に彼をみる。透明人間をやめる方法なんてありっこない。そんなもの誰も教えてくれない。私の視線の意味を察してか、彼は口を開いた。
「嘘じゃない」
「……魔法使いでもいるの?」
「魔法使いはいらない。手続きをいろいろする必要があるが、君は透明人間をやめることができる」
嘘ではない。彼は嘘をついていない気がする。でも、私は確認するように口を開く。
「本当?」
「本当だ。君の場合はいろいろ大変かもしれない。両親も名前も生年月日もわからないというが非常に厄介だからね」
彼は苦笑いすると頬杖をついた。
「さて、どうする? 君がそのままがいいなら、君が透明人間のまま生きていくこともできる。でも、もし君が透明人間をやめたいなら僕も力を貸そう」
私は考える。透明人間、敷島麗華ではない私がいまいち想像ができなかったからだ。
「――嘘をつくのをやめても『君』は残るんだ。『君』は『透明人間』かもしれないけれど、決して実体のない幽霊じゃない。君の存在がこの国に証明されるだけだ」
敷島麗華でなくなっても『私』は残る。透明人間だとしても、『私』はのこる。私はそれを反芻する。
「君の存在が証明されれば君は学校に通うこともできる」
「遅すぎるよ」
「そんなことはない。君の人生はこれからも続くんだ。で、君はどうしたい?」
彼はそういって口を閉ざす。私の回答を待っているようだった。私は考えて、考えて、うなずいた。彼の言葉を信じることにした。透明人間から脱却できるのであれば、周りと同じ『普通』を手に入れることができるのなら。そんな望みをかけて。彼の思っていた通りだったのか、彼は満足げにうなずいてから口を開く。
「それなら、手続きのやり方を教えよう。でも、その前に真っ先に決めなければならないことがある」
「何を?」
「これは大事なことだ。君の人生を左右するかもしれないくらい」
まじめな声色で彼は告げた。重大なこと、私の人生を左右するくらいの。なんだろうか、と私が気を引き締めていれば、彼はふっと笑った。
「君の名前だ」
とても優しい声色だった。この人は元より優しい声色の持ち主であるが、聞いた中でも一番の。それは工藤先生達の声色とも、私を気遣う警察の人の声色ともにていた。
