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 穏やかな言葉に胸が痛む。だがそれでも、伊作は決してその手を止めようとはしなかった。




 名前ははっと目を覚ました。うっすらと月明かりだけが感じられる空間でただ1人、言い様のない不安に襲われる。
 手繰るように胸にあるペンダントを掴んだ。脈打つ胸が煩い。何があったわけでもないのに体は勝手に外に向かって動く。障子を引いて、それで──────

「うっ」

 名前は咄嗟に身を翻した。無我夢中で側にあった桶を引っ掴む。
 充満する不快な臭いと音に思わず顔を顰める。身体は微かに震え、背中には冷や汗が伝った。息を継ぐ間も無く迫り上がってくるものをそのまま外へ吐きだす。

「水……水」

 掠れる声に呼応するように、誰かが強引に名前の口に水を入れた。それを軽く飲み、また逆流してくるものを口から出す。それを何度繰り返したろうか、出て来るのはもう胃液ばかりになったところで、名前は意識を手放した。



 土下座した頭をあげようとしない善法寺を目の前に、名前は居心地悪く身動ぎした。感染症を懸念して見舞い禁止となった部屋では助けが入ることもなく、「ねぇ、だから」と名前は何度目かのお願いをする。

「頭を上げてくださいってば」
「……本当に、すみませんでした」
「だから大丈夫だって……食中りなんでしょう? 善法寺君が防げたことではありません」
「いいえ、それでも」

 繰り返される押し問答に名前は小さくため息を吐く。
 たかが一晩吐き続けただけだ。苦しいことには苦しかったけれど、死ぬようなことでもなければ後遺症なども全くない。自分の立場を考えても、迅速に適切な治療をしてくれた善法寺にむしろ感謝しているというのに。
 何を言ってもそのままの善法寺にまた一つ息を吐くと、名前は仕方なく話題を変えた。

「それより、私はいつまで安静にしていた方がいいんですか?」
「明日丸々は……」
「そう」
「なにか運動の予定でもあるんですか?」
「まさか!」

 大袈裟なほど頭を振ってみせる。

「勉強会、どうしようかなと思いまして。明後日がテストだと庄左ヱ門君から聞きましたから」
「そうですね……。
 大事をとって今日は安静にした方が良いですが、明日の夜なら大丈夫ですよ」
「緩くないですか?」

 思わず口を突いて出た言葉に、善法寺が困ったように笑った。「あー」だとか「んー」だとか言いながら手を右に左に動かすのが滑稽だ。

「乱太郎達が、楽しみにしていますから」

 え、と名前は目を瞬く。
 そうか、先輩に話すほど楽しみにしているのか
 嬉しいけれど、それを素直に出すのも憚られて何とも言えない表情になる。しかしその顔をどう解釈したのか、「あ、別に」と慌てたように善法寺が腰を浮かした。

「なんでもかんでもベラベラ喋っているわけではありません。ですが、ふとした時に教えてくれたり」
「話されて怒っているわけではありませんよ、秘密なんてありませんし」

 なんというか、妙だ。前はもっと読めない表情ばかりだったのに。
 名前に見せるのは人が良さそうな笑顔ぐらいだったが、今日は何だか困惑したり申し訳なさそうにしたり、少し可愛らしい。対応まで優しくなった気さえする。
 吐いた甲斐があるわ
 名前が呟いてみても、荷物をまとめる善法寺は振り向きもしなかった。前は息ひとつ見逃さないと言わんばかりだったのに、こうも変わるとそれはそれで調子が狂う。

 ────ヘームヘムッヘムッヘムッヘムッ……

「じゃあ、そろそろ」

 善法寺が立ち上がった。やはりこの重い鐘の音は時の鐘だ。立花もは組もこれを聞いて行動していたから間違いない。
 しかしあの「声」は何なのだろう。名前は首を傾げる。
 昏睡していた期間を除いても、すでに8日は暮らしているが未だに分からないことが多い。厠以外、名前が学園の人と共有しているものは恐らくないだろう。浴場は一人分のスペースしかなく、多分名前のために作られたもの。それ以外は全て部屋の中で行い、散策のさの字もしていないのだ。
 こんなに大人しくしている間者なんて、いるわけないでしょう
 そんなことを思っても仕方がないとは名前も分かっている。だがそろそろ何か変化が欲しい。善法寺には申し訳ないが、こんな事態を引き起こしてくれて助かった。

「また夜も検診しに来ますから」
「はぁい、宜しくお願いします」

 善法寺を見送ると、またふと急激な眠気に襲われた。薬が未だに効いているのか、それとも────
 パチリ。
 名前が次に目を開けると、隣にはお粥が置かれていた。メモに「どれどれ……よ、読めない」とりあえず一晩以上寝たことは分かった。太陽が最後に見た時と同じ位置にいる。

「なんというか……自堕落」

 こんなに人は眠れるものかと最早感心さえしつつ名前は立ち上がる。この二日間、布団から背を起こす程度しか動いていない名前の身体は、立ち上がるだけでバキバキと音が鳴った。ここですんなり伸びれるほど15歳の身体は若くないらしい。

「まあ、散歩がてら厠に行こうかな」

 散歩として行く場所が厠しかないというのもまた、ずいぶん悲しい話だが。
 そういや、これを着るのにも慣れたな
 白衣に比べれば動きやすい忍び装束を、名前は結構気に入っている。こうして外を歩けば、黒が陽の光を吸収して温かくなるのも良ポイントだ。
 これ以上暑くなる可能性は考えない。季節が変わる頃には片がついてて欲しいなぁとひとりごち────名前は咄嗟に半身を引いた。

「保健室はこっちだ──────!」

 猛ダッシュで顔前を通り過ぎた子供の襟首をひしと掴む。

「違う、そっちじゃない」
「あれ、そうだったけ?……って、あ!貴女は今回の天女!……様」
「良いよ、無理に様つけなくても」
「え、本当ですか?」

 ポカンと開けられた口に吸い込まれそうだなどと思いながら頷くと、じゃあ天女で!とあっけらかんと言われる。ハキハキした物言いが清々しい。

「君の名前は?」
「私は神崎左門と言います!」