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「神崎左門君ね、どうぞ宜しく。
 ところで」

 ふとそこで言葉に詰まる。「迷子なの?」という質問は適切ではないような気がした。
 は組の子達よりも体は大きく、声もずっと低い。きっと2年生以上だろう。転入生という可能性もあるけれど、上半身の鍛え具合からして1年以上はここにいるに違いない。それでいて長屋で迷うなんてことがあるのだろうか。
 
「いやないでしょ」
「なにがですか?」
「あ、いや」

 迷子ではないとして、ならどうして保健室と違う方向に進んでいったのだろう。まさか保健室が二つあるのだろうか。なんのために。
 …………分からん
 やはりこの子に聞くべきか。それでも「迷子?」は憚られる。このぐらいの年の子は敏感だし、と不思議そうな顔で名前を見る神崎を見つめ返し

「……どうしてここにいるの?
 保健室は、そっちじゃなくてこっちだと思うけど」

 言外に道を間違えていないかと匂わせるところに着地した。そうして名前は一応神崎の顔を立てようとしたのに

「私は、決断力のある方向音痴なんです」
「……はい?」
「決断力のある方向音痴、です!」
「決断力のある、方向音痴?」
「はい!」

 いや別に自慢することじゃないけど
 内心で言っておく。あの迷っていた時間は確実に無駄だった。
 まずもって「決断力がある」ことと「方向音痴」は全く違う話ではないのか。決断力の話はなぜ出てきたのだろう。それにいくら方向音痴だとしても、流石に自分が暮らしているところで迷子にまでなるのだろうか。少なくとも誇らしげに言うことではない。
 ツッコミどころが多すぎて何から言うべきか、

「まぁ、その二つ名気に入ってそうだからいいけど」
「はい! 私のことをよく表しているな、と」
「つまり方向音痴だから、保健室に行くのにも苦労しているのね?」
「そうなんです……」

 もう探し始めてから大分経つんですが
 乾いた笑いをこぼして頭を掻く神崎に名前は苦笑した。その様子では今自分がいる場所すら分かっているかも怪しい。

「保健室まで送ろうか」
「分かるんですか!?」
「むしろ、保健室ぐらいしか知っている場所がないと言った方が正しいんだけど」
「あぁ、お怪我されて来たんですよね。大丈夫ですか?」
「ええ。善法寺君のお陰ですっかり……ってどこ行くの」
「あれ、こっちじゃないんですか?」
「こっちよ」

 手を繋ぐのは嫌だろうから、悪いと思いつつ袖を引っ張る。名前が目を離せばすぐあっちにフラフラこっちにフラフラ、一体何を頼りに保健室に向かっているのかも恐ろしい。
 聞けば、神崎は今年で3年生だと言う。つまり少なくとも2年間はここで過ごしている計算になる。2年間も、だ。いくら方向音痴とはいえ、2年もあれば保健室に何回か足は運ぶだろう。それなのに保健室が分からないなんて、まさかこれも罠か?と首を捻りながら名前は歩く。
 
「……で、孫兵はその毒蛇をジュンコと呼んで凄く大切にしているんです」

 楽しそうに話す神崎の様子を見ると、そういうわけでもなさそうだが。

「毒蛇が恋人ねえ。その伊賀崎君が恋に落ちるほど美しいなら見てみたいものだけど」
「まぁ流石に恋に落ちるのは孫兵ぐらいだと思いますけど……」
「そう?」
「はい。あとは影が薄くて名前を忘れられてしまう、3年は組の三反田数馬という友達もいます」
「それはちょっと可哀想」
「あとは僕と同じで3年ろ組の、体育委員会所属で方向音痴な……あ、あいつです!」

 おおい!三之助!と神崎は大きく手を振り振り声をあげた。その声に、怪我をした泥だらけの少年が顔を上げ「おお! 左門じゃないか!」と返したと思ったら

「ど、どこに向かってるの!?」
「三之助は無自覚な方向音痴だから、まっすぐ辿り着けないんですよ」
「いやいやそういう問題じゃないから!」

 慌ててその背を追いかける。方向音痴とは、地図が読めない人や離れた場所に着けない人のことを指すのであって、視界に入っている、ましてや直線で辿り着くところにすら行けないのは方向音痴を超えている。
 見失ったら二度と見つからない気がして、名前も必死になった。怖すぎる。

「っはー捕まえたっ!」

 伸ばした手がなんとか襟首に引っかかった。

「え?」
「神崎君はこっち」
「やあ三之助! どこに向かって走ってたんだ?」
「どこって、左門の声が聞こえたから左門の方へ……この女は?」
「こちらは今回の天女だ」
「どうも、今回の天女です」
「はあ、今回の天女ですか、どうも」

 間抜けな挨拶に笑いを零す名前をよそに、2人はきゅっと身を寄せひそひそと話し始めた。

「本当に信用しても良いのか?」
「でも、取り敢えず保健室に連れて行ってくれるっていうし」

 全部聞こえているが、可愛いので指摘はせずにこっそり聞き耳を立てる。

「そんなの俺達だけで行けばいいだろう」
「僕達2人だけでいくのなんか無理だよ。僕も三之助も方向音痴なのに」
「左門は方向音痴だけど、俺は方向音痴じゃないから平気だよ。俺が案内してあげる」

 無自覚ってそういうことね
 名前は小さく笑ってひとりごちた。方向音痴ではないかも知れないけれど、目の前にいる神崎の元へも辿り着けなかった三之助が保健室に行けるとはとても思えない。
 それを神崎が「怪我も酷いし天女に従っても良いのではないか」と三之助を説得するのだから余計に面白い。「決断力」と「無自覚」の違いはそこか。考えた人は天才だ。
 まぁ私が怪しくないって分かってたらもっと楽なんだけどね
 それでも「俺は迷子じゃない!」と言い出しそうな雰囲気ではあるが。

「……迷子にならないでくださいよ」

 言いつつ三之助から出された手を握る。結局一緒に保健室へ行くことにしたらしい。「はい」今度は名前から左手を差し出せば、神崎もすんなり手を繋いでくれた。袖を掴むより随分安心だ。

「それで君、名前は?」
「次屋三之助と言います」
「そう、宜しくね」
「そういえば天女の名前を聞いてなかったな!お名前を聞いても良いでしょうか」

 神崎の質問にあれま、と名前は目を瞬く。さっきまで名前のことには興味もなさそうに話していたのに、一体どういう風の吹き回しか。

「苗字名前っていうの。この時代にもいる?」
「うーん……俺は聞いたことないですねえ」
「僕もありません」
「そっかあ。この時代だとどんな名前が多いんだろう」
「ユキちゃん、トモミちゃん、おしげちゃん……」
「あとは、亜子ちゃん猪々子ちゃん卯子ちゃんとか」
「ええ、本当?」

 神崎の挙げた名前に思わず眉を寄せる。冗談のような名前、とは思いつつもまあいるというのだからいるのだろう。自分の常識が通じないことは理解しつつある。

「じゃあそうね……
 次屋君が来るまでは神崎君に3年生のお話を聞いてたんだけど、3年生の面白い話をもっと聞かせてよ」
「左門は誰のことを話したんだ?」