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「もう一度言う。水を満たした桶2つ、空の桶1つ、ひしゃく2つと食堂からお酢を。
 お肉があるならお肉もひとかけら」
「生肉ですか?」
「うん不破君、生肉をお願いできる? お湯も持ってこれるなら、悪いけどお湯も」
「分かりました、持ってきます」
「私が持ってきた物とスーツを触ってもいいなら、どちらも持ってきてくれると助かる。
 ここで水を扱うから、畳を汚さない方がいいなら敷物も」
「そんなことさせるくらいなら井戸に連れて行けば良かったと思うがな」
「学園内のことを知られたくないくせによく言う。そんなことをすれば私を疑うのに」

 鼻で笑った天女に文次郎は拳を握る。だが

「よせ、文次郎」
「仙蔵」
「悔しいだろうが我慢しろ。今小平太を治せるのはこの女だけだ」

 覚えていろと捨て台詞を吐いた文次郎に、天女は溜息をついた。
 今まで大人しく、どちらかといえば気も弱そうに振る舞っていたのが見せかけだったとする。だとしても、せっかく取り繕っていたものをうっかり剥いでしまうほど焦る、重篤な怪我なのだろうか。
 小平太に矢羽音を送っても「なんか痛い」と相変わらずな様子に首を捻る伊作の横で、天女は丁寧に小平太の手甲を解き始めた。
 なんだかんだは組の部屋に集まったのは正解だ。ここなら薬草や茣蓙の準備ができる。違う部屋ならば、そこに手負いの小平太と天女だけを残すことになっていた。

「私はなんでこうなったんだ?」
「その説明は、みんなが集まってからでいい?」

 2人だけを残したところで、問題ないような気もするけれど。

「おい、持ってきたぞ」
「3人ともありがとう。この上に3つ並べて、ああ並び順はどうでもいい。
 後ろの藍色君、お酢は私に」
「これがお前から取り上げたものだが」

 立花が木箱と「すーつ」を差し出すと

「ありがとう。それは私と立花君の間に置いてくれれば」

 天女はテキパキと指示を出し、最後に小平太を見上げた。

「この桶の中で、痛いだろうけど手を強くこすり洗いして」
「……分かった」
「本当は他人が擦った方がいいんだけど……君やる? 私にやらせるの嫌でしょう」

 「君」と指された長次は少しの間逡巡したのち、コクリと一つ頷いた。さすがの小平太でも痛いのか、軽くしか擦っていなかった手をガシリと掴むと

「いっ……」
「君、七松君の肌が剥がれ落ちない程度に擦ってね」
「おい、小平太は一体何を触ったんだ?」
「水酸化ナトリウムというアルカリ性の液体なんだけど……食満君、分かる?」
「いや」
「そうだよね」

 天女は木箱から白い手袋を出すと両手に嵌めた。それから透明な液体が入った小瓶を取り出し「これが水酸化ナトリウム」と振って見せ、中の液体を別の小瓶に移していく。

「このお肉、今この場で切れる人いる?」
「なにをするつもりだ」
「君、本当に私のこと嫌いだね……まぁそれはいいわ。
 七松君の手に起こったことをやって見せるの。この瓶に入るくらいに切れない?」
「……俺がやりましょうか」

 久々知が名乗り上げると天女は「よろしく」と笑みを浮かべた。久々知は胸元から苦無を取り出すと、爪ほどの量だけ切り取って手渡す。
 天女はそれを小瓶に落とすと

「見ててね」

 お湯の入った桶に小瓶を半分ほどつけ、クルクルと回し始めた。「もうちょっと近寄ったら?」と言うので、全員で額を合わせて桶を覗き込む。すると

「え……?」

 鶏肉がホロホロと分解され、溶けていった。

「まだ残ってるけど、一晩も放置すればなくなる。
 鳥の肉も人間の肉も、味は違うでしょうけど同じ肉。言っている意味分かるよね?」

 ヒッとさしもの小平太も息を飲んだ。

「触ってからそこまで経ってないこと、それに飛沫が飛んだだけだったんだからラッキー。
 今痛いでしょうけど」
「うん……」
「っていうか忍者なんだから、分からないものは触っちゃいけないことぐらいわかるでしょ?」
「まるで忍者について知ってるような口ぶりだな」
「まぁ、死ぬ前にやってたの忍者みたいな仕事だったし」
「未来に忍者はいないと聞いたが」
「立花君。私が言ったのは忍者“みたいな”。忍者とは言ってない。
 仕事の話はしたような気がしていたけど」

 天女は伊作達を見渡し「してなかったっけ」と首を傾げた。なんとも白々しい。その様子に溜息をついた伊作は、話を促そうと顔をあげたが

『女の話を聞く。それを課題の答えにして良いか』
『もちろんだ』

 文次郎の矢羽音に口を噤んだ。

『いいアイデアだね』

 女の元いた世界の話は、たしかに「天女の証拠」になる。物的証拠はないけれど、この時代の人で、伊作達に未来の知識で勝る人はいないだろう。
 未来について、文次郎さえ論破できたら────苗字名前は、天女だ。

「忍者みたいな仕事とは何だ」
「ええと、説明が物凄く面倒なのだけど……」

 天女はチラリとこちらを伺ったが、誤魔化せば怪しまれると分かっているのだろう。小さく息を吐くと「紙と筆を貸してくれる?」差し出された右手に、伊作は手元にあった留三郎の私物を渡す。

「警察、って知ってる?」
「町や国の安全を維持するために存在していると聞いた。ここでいう山賊のような奴らを捕まえるのが仕事らしいな」
「まぁそんな感じ。いわゆる治安維持組織ね」

 天女はそういうと、紙の上部に『警察』と大きく書いて丸で囲った。そこから何本か線を出し

「町の日頃の生活を守る仕事、例えばひったくり……かっぱらいかしらね、を捕まえたりするのが生活安全局。
 さっき君が言ったみたいに、山賊のような凶悪な奴らを取り締まるのが刑事局。他にも仕事はあるけどね。
 とかこんな感じで」

 警察にも仕事が色々あるのよ
 言いつつ交通局、外事情報部、警備局、その他と書き足していく。
 
「それで私がいたのがここ、警備局。
 その中もさらに別れてて、私は警備企画課っていうところで働いてたんだけど……」

 本当になんて説明すれば良いのかとひとりごち、天女はあからさまに眉を顰めた。「社会のルールも慣習も何もかも違うのに」とかなんとかぶつぶつ呟きながら首を捻らせる。
 分かりやすく見せているのか、それとも演技か。
 鋭い視線を浴びせるが、当の天女は微妙な表情を浮かべたまま

「こう、組織に潜入したり潰す計画を練ったりするの。所属する誰かを監視したりね。
 国の敵対組織だけじゃなくて、犯罪組織とか宗教組織とか本当に色々ね」