31


「潜入ってのは、仲間のフリをして入り込むってことか」
「そうだよ。それで情報を仕入れたり、仲間を作ったり。偽の情報を流して内部を混乱に陥れるとか。
 争いを事前に防ぐだけじゃなくて、時にはわざと争いを起こして力を削ることもある」
「その潜入や監視は誰かの指示で行うのか、それとも」
「もちろん、指示ありよ。勝手にやったらそれこそ犯罪、捕まっちゃうわ。
 警察はね、国家や県……って言ってもあれよね。城主って言えば良いのかな?に仕えてるから、そこからの指示を受けて動く。潜入している間の行動は個人の裁量だけど……。
 忍者と似てると思わない? どう?」

 天女は笑って小首をかしげると、小平太を振り返った。「そろそろいいんじゃない?」と言いつつ長次の手をどけじっくり見ると、天女は満足したように頷きを繰り返す。そして新しい桶を引き寄せ

「それ、どうするんだい?」

 尾浜が持ってきたお酢をひしゃくに入れる天女に、咄嗟に伊作は質問した。

「七松君の手にかけるの」
「えっなんでだ?」
「七松君も難しいこと聞くのね。その……中和、するためなんだけど」

 小平太が首を傾げると「分かるわけないよね……」と項垂れた天女だったが、次の瞬間にハッと顔をあげた。
 
「漬物、酸っぱくなったらどうする?」
「卵の殻を入れるな」
「それ!卵の殻は水酸化ナトリウム、酸っぱくなった漬物はお酢と思って。組み合わせると、反応が起きて……なんていうの、普通に戻るんだよ」

 ふうんと小平太は頷いた。あれは絶対に分かっていない。
 かくいう伊作にもよく分からないが、治療ができるのは天女だけだ。全員がじっと見つめる中、小平太の手にお酢がかけられ新しい桶が差し出された。

「もう一回」
「もう一回……洗い流すのか?」
「ええそうよ」

 言下「もう嫌だ!」と声をあげた小平太に天女が苦笑する。

「あとでもっと痛い思いするよりマシだから我慢して」
「長次の手は豆でザラザラしている!」
「なら他の誰か、七松君が指名してくれていいよ」
「……仙蔵」

 たしかに仙蔵の手は一番傷が少ないが。
 よほど痛いらしい。鶏肉溶けてたもんなぁと伊作はひとりごつ。

「なら立花君に任そうか。
 私のこの箱も監視しないといけないでしょうから、悪いけど君はこっちに来てくれる?」
「もそ」

 さっさと入れ替わる二人を横目に「それで」と文次郎は焦ったそうに口を開いた。

「あぁごめん、話を戻そうか」
「確かに仕事内容は似ているが……一つ、おかしな点がある」
「どうぞ」
「今までの天女様によれば、未来はそれはそれは平和だと聞いたが。
 山賊のような奴らがいても大したことはない。銃や鉄砲を使うようなこともないと」
「つまり?」
「警察に、お前が言うほど危険な仕事はないんじゃないか」
「まさか!」

 ふっと小さく笑った天女に、後ろから鉢屋の舌打ちが聞こえた。この妙に余裕そうな態度が気に触るのか、と遅ばせながら伊作も納得する。
 僕の前では結構塩らしくしてたんだけどなぁ
 本当はこんな様子のことも多かったのだろう。実際立花は驚いた素振りも見せていない。やっぱり一杯食わされたのかも、と胸の内で呟く。
 
「だから、そう思ってもらうために警察はいるの」
「はあ?」

 今度こそ隠す気のない鉢屋の尖った声に、不破が「ちょっと三郎」と嗜めた。
 天女を敵にもならないと思っているにしても、鉢屋がこうも目に見えて感情的になるのは珍しい。「相性が悪いな、この2人」と呟いた食満に伊作も頷く。

「考えてもみて。1度出来てしまったものを消す方法ってある? 例えば鉄砲を消す方法。あるかしらね、君」

 天女の挑発的な視線を、三郎は負けじと睨み返した。

「消せるわけないだろう。鉄砲を失ったらもう戦では勝つことができない。それはつまり」
「そうじゃなくて。平和になった時、そこに鉄砲はあると思う? ないと思う?」
「……あるだろうな。消す方法はない」
「でしょ? つまりね、未来にも鉄砲はあるけど、使うことをルール上禁止されてるだけ。
 でもさぁルールなんてみんな破るでしょ。廊下は走るなっていうけどみんな走るし。だからみんなが安心して暮らせるように、警察はルール違反する人を捕まえるの。
 それだけじゃない。みんなが平和に暮らせるように、警察が危険な仕事をすることもある」
「言っていることに矛盾はないが……しかし、武器が未来にも存在するという証拠はあるのか?
 刀は“日本刀”としてプレミアで販売されているとは聞いた。だがそうではなく、実際に使われているものはあるのか?」
「あるけど……」

 天女はそこで言葉を区切ると、困ったように笑いつつ

「私がここで腹を見せた場合、誘惑したと言って斬られるのかしら」
「なにを言っている?」
「……天女様」

 伊作は思わず口を開いた。

「上衣を少しまくるだけなら、大丈夫です」
「そう、ありがとう」

 そう言って1尺ほどペラリと上衣を捲り上げた左腹には────まだ少し、天女がここに来た時の怪我が残っている。そしてそこに、天女は木箱から取り出した“小さな火縄銃のようなもの”を押し当てた。

「……天女様は、それで死んだんですか?」

 竹谷が伺うと、ううんと天女は首を横に振った。

「違うよ。銃で撃たれたすぐ後に、海に飛び込んで死んだ」
「誰に撃たれたんですか」
「敵……敵ではないわね。潜入していた先の上司というか、偉い人に。
 潜入失敗よ。分かるでしょ、言ってる意味」

 あっけらかんと天女は言ったが、表情に隠しきれない悔しさが滲んでいる。
 これは嘘じゃない
 伊作は血が引いていくのを感じた。卒業後の未来が、目の前に立っている。

「……そんなに怖い顔をしないで」

 天女は服を元に戻すとニッコリ笑った。

「あなた達は優秀よ。こうはならないわ」
「……この機会だから洗いざらい話せ。なぜ海に飛び込んだ。乱太郎達と一緒に走れたなら、走って逃げれたんじゃないのか」

 文次郎の言葉に「だって」不服そうに天女は呟くと、紙を裏返す。そして『私』の三方を海で囲い、残った一方に銃と書いた。

「これでどうやって逃げろっていうの?
 ここまでくるのに散々走ったのに、あの人たち諦めずについてくるんだもの。
 車って馬よりずっと早い乗り物だよ、勝てるはずない」