一緒に踊ろう


「……なぁ、保健委員はなんか業でも背負ってんのか?」

 遠くから聞こえた呆れ声に、名前は顔を上げた。

「そうかも、知れないです」

 深い深い穴の中から見上げる青空は本当に綺麗だ。
 それを善法寺に言ったら「今はそうだろうね」と言われたのを思い出す。「今は?」あの時は首を傾げたが、すぐにその意味を理解した。そうしていつしか青い空と鳥の鳴き声は、名前を失望させる象徴に変わっていたというのに。
 この青空がまた、名前を楽しませるものになったのはいつだっただろう。

「伊作も名前も、よく保健委員になろうと思ったな。今年も」
「いいじゃないですか。好きなんですから」

 こうして穴に落ちている自分を拾ってくれる、食満のことが。

「物好きだなぁ名前も。
 よし、待ってろ! 今縄梯子を持ってきてやる」
「ありがとうございますー! 大好きです、食満先輩!」
「なんだなんだ。穴に落ちて頭でも打ったのか?」

 真剣なんだけどなぁ
 呟いても、この深い穴の中からではとても食満には届かない。可愛がられているのは分かる。でもそれだけでは足りないと思うのは、わがままなのだろうか。
 この深い穴はまさに、食満と名前の心の距離そのもの。そう思うとまた少し、名前は落とし穴が嫌いになった。



「苗字先輩! このおにぎりの具は梅干しですね?」
「よく匂いを嗅いだだけで分かるねぇ、しんべヱ」
「いやぁ、すまんないつもいつも」
「いえいえ!
 後輩達と遊ぶのは楽しいので」

 まるで弟のように、先輩!先輩!と慕ってくれる1年生たちに目を細める。

「今日は少し塩味が濃いですね」
「そうよー作兵衛くん。暑いから、塩分取らないと!」
「さすが苗字先輩!先輩は保健委員だから、なんでも分かってらっしゃいますね」
「あっ喜三太!そういいながらなめくじをそっちに放すんじゃねえ!」
「だって塩があったらなめくじさん達溶けちゃいますよぉ」
「だからと言ってなぁ」
「……あれ、まさか」

 ふと嫌な予感がして名前は蛞蝓の行先を見た。
 待って、そっちには

「ちょっと、平」
「ひいいいいいいいい!」
「間に合わなかった……」
「どうした!」
「食満先輩、僕ちびっちゃいました……」
「喜三太がナメクジを進ませた方向に平太がいて」
「またか」

 湿気を好むナメクジと、日陰を好む1年ろ組の下坂部平太。似たような立地を好むのは昔からだけれど、本格的に暑さが厳しくなってからは、全く同じ場所に辿り着くようになってしまった。
 怖がりの下坂部にはとんだ災難だろう、かわいそうに。

「作兵衛!」
「へい!」
「平太を保健室に連れてってやれ! そのまま1年と長屋に帰っていいぞ、今日の委員会活動はこれで終わりだ」
「ですが食満先輩、修繕が終わってない物がこんなに……」
「気にするな。どうせ壊したのは6年だ、俺がどうにかする」
「しかし」
「この暑さの中あんまり委員会をしていると伊作に怒られる。それに、平太を保健室に連れて行くのは作兵衛にしか頼めない大切な仕事だ。やってくれるか?」
「はい!もちろんです!」

 本当に格好良いと名前はひとりごつ。4年の忍たまなら喧嘩になるようなところを、いつも上手く解決する。
 ドキドキしながらこっそり食満を横目で見つめると「なんだ?」急に目が合い思わず飛び跳ねた。

「い、いえ……
 あ、わ、私も! 私も修繕のお手伝いをしたいな、と」
「いや、今日は暑いしお前も長屋に……」
「大丈夫です! 保健委員として、熱中症対策は万全です」
「そうか」

 笑う食満にまた胸がきゅうと締め付けられた。

「じゃあこの桶類を直してくれるか?」
「はい!」

 不運のおかげでしょっちゅう治療中に桶類を壊す保健委員は、桶の修繕だけは用具委員に勝るとも劣らない。不運は不運の名の通り起こっても全く嬉しくないが、桶が壊れることだけは不運中の幸いである。

「桶といえばそうだ、昨日は大分桶が入用だったそうだな。保健室で」
「え、なんの話ですか?」
「知らないのか?
 昨日アヤ子が落とし穴に落ちて大怪我をしたと聞いたんだが」
「アヤ子? ……ああ、くノ一教室3年の立川アヤ子!」
「そうだ。あいつ、大丈夫か?」

 なんで食満先輩が知っているの……あれはくノ一だけの騒動なのに
 渦巻く気持ちに蓋をして「今日は元気そうでしたよ」と名前は素っ気なく答える。

「しっかし喜八郎は全く」
「私もあんまり穴を掘らないように何度も言ってはいるんですが……用具委員にまで迷惑をかけて。
 本当にもう、喜八郎は」
「お前達は本当に仲が良いなぁ」
「なに言っているんですか! そんなことありませんよ」
「そんなムキになるな。
 しょっちゅう落とし穴のことで喧嘩してるって、食堂のちょっとした名物だろう」
「違いますよ、やめてください」

 くそう喜八郎覚えてろ、と内心毒づく。
 お前のせいで食満先輩の中に、苗字は喧嘩っ早いというイメージがついてしまったじゃない。

「しかしまぁ、お前もアヤ子も、怪我には気を付けろよ」
「……はい」

 自分だけを心配して欲しい、それもわがまますぎるだろうか。


 その日から、食満はちょくちょく立川を拾っては保健室に来るようになった。
 人数の少ないくの一教室では、上級生が実習に行く間4年生が委員会を切り盛りすることになる。そうして外に出ることもままならないで保健室当番をしていると「……まただ」鉄双節棍が擦れる音がして名前は顔を顰めた。
 スパン!
 慌てたように障子が開けられるのも苛立たしい。

「名前! アヤ子が落とし穴に落ちていた」
「食満先輩。それからアヤ子も」

 男子禁制のくノ一長屋だが、万が一に備えて保健室だけは特別に出入りが許可されている。こんな状況ではそれすらも憎い。

「苗字先輩」
「……大丈夫?」
「はい……」
「いや、大丈夫じゃないだろう。ほら、ここから血が」

 そういうと食満は立川の頬に触れ、名前の方に見えるように押し出した。

「なんでまたこんなところに怪我を」
「私が落ちた落とし穴の壁に、大きな石が埋まってたんです」
「じゃあ喜八郎の掘った穴じゃないね」
「誰が掘った穴かなんてどうでもいいじゃないですか! それより早く治療してくださいよ、苗字先輩。痛くて痛くて、私……」

 何よ、別にかすり傷程度で大したことないじゃない。メソメソと甘えたように泣く立川に内心毒づきながら消毒していく。横で「嫁入り前の女の顔に傷でも残ったら」とあたふたしている食満にも腹が立つ。忍びのくせにすぐ絆される。

「でも食満先輩、私おっちょこちょいだから、こんな怪我しょっちゅうしてるじゃないですか」
「そうだなぁ」
「だから先輩に見つけてもらえると、本当に嬉しくって。しかも軽々と抱えて下さるから、すごくカッコよくて……」

 伏し目がちに食満を伺う立川と、それにまんざらでもなさそうな食満。
 ここは保健室なんですが?
 なにが嬉しくて思い人に色目を使う女の治療をしなければいけないんだか。保健委員という自分の立場が恨めしくなる。

「そう思うとアヤ子は偉いなあ」
「偉い、ですか?」
「ああ。アヤ子は泣かないだろう。こいつなんて」

 こいつ。
 食満の指の先にいるのは名前だ。

「こいつって言わないでくださいよ」
「すまんすまん。
 まぁとにかく名前は穴に落ちては泣いて、枝に引っかかっては泣いて、木の幹にぶつかっては泣いて、そりゃあ大変だったんだ」
「そうだったんですか?」
「ちょっとやめてくださいよ、食満先輩」

 眉をしかめる名前をよそに、2人は大笑いする。

「それである日、少し普段より深い穴に落ちてな」
「はい。ふふっ」
「あんまり泣いて泣き止まないもんだから、その時の用具委員長がくださった団子を名前にあげたんだ。
 そしたらすぐに泣き止んでな」
「なにそれ、先輩可愛いですね」

 馬鹿にしたような立川の物言いがうざったい。にっこり笑う笑顔すら癪に障ると、苛立つ気持ちを抑えて下を向く。

「別に」
「それであんまり美味しいっていうから約束したんだ。
 もし1ヶ月間、どんな目にあっても泣かなかったら、この団子を買ってやる。泣いたらなしだ」
「そうしたら?」
「全く泣かなくなったな」
「えー先輩食いしん坊」 
「はい! 治療終わりましたよ!」

 わざと大声を出して2人を遮った。なにが食いしん坊だ。
 しかし2人は立ち上がりつつ会話を続けた。名前の方を見向きもせずに。

「ねぇ先輩、そこって忍術学園から近いんですか?」
「そうだなぁ。山を降りてわりとすぐだが」
「じゃあ先輩! 私と今度食べにいきましょうよ。
 私、1ヶ月間1回も泣いてないですよ」
「たしかにな。じゃあ、今度一緒に行くか!
 名前も一緒にどうだ?」
「私、そんな暇ないんで」

 口にしてからはっと思わず息を飲む。あまりに刺々しい言い方に、食満だけでなく立川までも口を止め、名前を見遣った。

「……そうだよな」
「あ、いや」

 沈黙を破ったのは食満だった。

「お前も最近、1人で保健室にいて大変だろう。そんな時間もないだろうに、悪いこといったな。
 たまには伊作も頼れよ」
「あ、はい……」

 違う、そんなことないのに。
 思ってもそれは伝わることはない。あんな言い方をして、嫌なやつと思われたに違いない。
 食満先輩と立川は、2人で団子屋に行くのかな
 後悔先に立たず。これほどまでにふさわしい状況はないだろう。仲良く歩いていく2人の背中を見ていることも出来ず、名前は保健室の障子を閉めた。


 ────ギンギーン!
 潮江先輩、今日は保健室近くで練習かあ
 こんな夜中になにやってんだろ。潮江にも、自分にも向けてひとりごつ。
 しかし潮江はともかく、名前が残ることはもはや日常茶飯事である。今日も今日とて七松が打ったバレーボールがちょうど保健室に飛び入り、ちょうど水を変えようとした花瓶に直撃し、それくらいでは勢いの衰えないボールがちょうど薬草棚にぶつかって戸棚が飛び、ちょうど割れた花瓶の上に落ちた。要するになんてことはない、ただの不運だ。

「だけど本当に、保健委員ったら業でも背負ってるんじゃないの……」

 名前がポツリと呟いたその時

「よう、元気か」

 ガラリと勢いよく開けられた腰障子の先にいたのは「……食満先輩、何の用で」名前の質問にも答えないままズカズカと保健室に入ってくる。

「いやぁしかし、なんでこんなに保健室が荒れてるんだ」
「いつもの不運です」
「大変だなぁ。疲れただろ? 少しは休め」

 言いつつズイと押し出されたのは

「団子……?」
「そうだ。名前の好きなあの店で買ってきたんだ。
 いつも頑張ってて偉いな、名前」

 言下、名前の目から涙が溢れた。

「お、おいどうした」

 慌てる食満に何か言いたくても、まるで滝のように止まることなく水が流れていく。

「せ、先輩ぃぃぃい」
「そ、そんなに好きか、団子が」

 ほら拭け
 差し出された懐紙で目をゴシゴシ擦ると「そんなに強く拭くと荒れるぞ」と心配そうに顔を覗かれる。
 そんなふうにされるとまた胸が苦しくなるからやめて欲しい。自分だけをそうやって見てくれると勘違いしそうになる。

「そんなにこの団子が好きなんてなぁ……。
 昼間は悪かったな。名前は忙しいのに、団子屋に誘って」
「せ、先輩。このお団子は」
「うん?」
「立川と買いに行ったんですか?」

 嗚咽も止まらず変な音を鳴らして聞く名前に、違う違うと笑って食満は首を振った。

「そんなはずないだろう。あんな時間から誰かを連れて行ったら、団子を買うのに間に合わん。
 作法委員会でちょうど街に行く用があったみたいでな、仙蔵に頼んだんだ」

 それを聞いて収まりかけていた名前の涙は噴出した。

「好きですぅぅぅう」
「そんなにか? いや、実際団子を買ってきたのは仙蔵だから、礼なら仙蔵に」
「違います……っひっくあんなに悪態ついたのに、わざわざ立花先輩に頼んでくれた食満先輩が好きなんですっよう」

 みっともなく号泣する名前の前で、食満は苦笑すると

「ああ、俺も名前のことが好きだよ」
「先輩の好きとは違うんです……私は先輩を思うと苦しくなって、穴から拾うのは私だけがよくって、それで」
「それで、口吸いして欲しくなったりもするのか?」

 ひゅ、と一瞬にして涙を止めた名前の口に、食満の唇が触れた。
 頭が真っ白になって、それから、ちょっとカサカサするな、なんて思って
 ゆっくりと顔が離れていくのを名残惜しいと思った。

「……同じだと思ってたんだが、違うのか?」
「ちが、わ、ない……と、思います……」
「そうか。それならいいんだが」

 ほら、団子食べないのか?と呑気に皿を渡す食満に、呆然として名前は尋ねる。

「あ、あのそれで……」
「どうした?」
「さ、さっきのは」
「……俺も、どうしたらいいのか分からん」
「え?」
「いや、衝動で口を吸っちまったが……本当は違うところで言うつもりだったんだ。だから」
「だから?」
「とりあえず次の休みが3日後だっただろう。
 暇か?」

 ええと、と当番表を思い出す。明後日先輩達が保健室に帰ってくるから────

「はい。空いています」
「それじゃあその日に街に行こう。そこで仕切り直しだ」
「え?」
「じゃあまたな!」

 次の瞬間には跡形もなく消えていた食満に呆気に取られる。しかし名前ははたと気づいた。
 え、これって次の休みって……デート、するのかな!?
 悲しみにくれていた昼間とは打って変わって、早鐘を打つ心臓に手を当てた。




【てのひらの上で、一緒に踊ろう】 ─ 終 ─