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「焚いてくれるのは本当に助かってる、ありがとう。
 ただね、なにもわざわざ私が入っている時に焚き直さなくてもいいんじゃない?」
「用具管理主任の、吉野作造先生に裏の水を今すぐ焚いてこいって言われて……」
「……嫌がらせ?」
「そんなことするような先生じゃないけどなぁ」

 うーんと首を捻った門番だったが、用具倉庫に着くなりその謎は解決された。

「小松田君! なんで水桶をそのまま持って帰ってきたんですか!」

 この門番さん、小松田っていうのねと名前はひとりごつ 。そして用具倉庫で出迎えてくれた、小松田をカンカンに怒っているこの人が吉野作造先生らしい。

「え? ええっと……」

 黙り込んだ小松田に、はぁと吉野は溜息を吐いた。

「……小松田君は裏で、なにをしていたんですか?」
「水を焚いていました」
「はい?」
「だから水を、」
「私は水を焚いてきてとは頼んでいません。『水を“撒いて”きて欲しい』と頼みました」
「なぁーんだ」

 すぐさま「なぁーんだ、ではありません!」と反駁した吉野に名前は乾いた笑いを零した。土井に負けず劣らずの苦労人である。

「それで天女様は、なぜここへ?」
「私がお風呂に入っていたら、お湯が急に熱くなって。慌てて飛び出したら小松田さんがいらしたので、ここまで」
「天女様のお風呂を焚き直したんですか?」
「吉野先生が『裏の水』とおっしゃったので」
「確かに天女様のお風呂は裏の方にありますが……それでは意味が通らないでしょう」

 吉野は再度、大きく息を吐いた。

「……小松田君、今後は気をつけてくださいね。
 普段からかなりぼんやりしていますが、今日は更にぼんやりしています」

 ええー手厳しいと名前は内心呟く。ところが小松田は気にした素振りもなく、どこか一点を見つめていた。

「小松田君? 聞いていますか?」
「実は、気になることがあって」
「気になること?」
「はい。今日、利吉さんがちょっとだけ学園にいらしたんですが」
「ああ、利吉くんが」

 名前が首を傾げると「学園の関係者です」と吉野ははぐらかした。まぁいいかと名前はひとつ頷くと

「失礼しました。続きを」
「その時、利吉さんは僕に『牡蠣飯にはお気を付けて』と囁いたんです」
「はぁ?」
「牡蠣飯?」
「はい。今日のB定食は牡蠣飯だけど、利吉さんがそういうならA定食にしたほうがいいかなぁ。
 でも僕は牡蠣飯が好きだから決められなくて」
「こ、ま、つ、だ、くん……!」

 吉野が拳を握って震えている。この先に起こることを見越して、名前はそっと目を逸らした。



「……それで昨日の夜、小松田さんがタンコブ作ってひぃひぃ言いながら花に水をやっていたと」
「そういうこと」

 アルバイトに向かう道中、名前の話を聞いたきり丸は「小松田さんらしいぜ」と言い放った。へっぽこ事務員とまで呼ばれているそうだが、なんだかんだ可愛がられているらしい。
 投げられたり火を焚かれたり、名前も結構な思いをさせられたが確かに憎めない人である。

「それで名前さんはどうしたんっすか?」
「いや、特に。お気になさらずーと言ってから『私は天女様じゃなくて苗字名前です』って付け加えて帰ったよ」
「絶対に天女様とは呼ばせないんっすね」
「そもそも私は天女様じゃないからね。おかしいもの」

 顔をしかめていうときり丸は笑った。

「保健委員会でも天女様って呼び方はやめてもらったんすか?」
「もちろん。そのおかげかは分からないけど、ちょっとは馴染めたんじゃないかなぁ」
「へぇ。そんじゃあ保健委員会に入ろうかなーとか思ってます?」
「まだ全部見ないと分かんないけど……正直、あの不運に耐えられる自信はないからなぁ」
「俺もっす」

 2人同時に吹き出した。あの不運具合はもちろんのこと、それに耐えている保健委員たちには本当に驚かされる。

「尊敬するよ、あの子たちを」
「今日も委員会のあと、落とし穴に落ちたんすよね?」
「ええ。私の目の前で、全員揃ってね。
 アルバイトの約束があったから置いてきちゃったけど、少なからず心配」
「大丈夫っすよ。あれが日常なんで」
「まぁ……そうよね」

 酷い言い草だが、本人達までそういうので仕方がない。昨日散々聞き尽くしたと思っていた「不運話」だが、それは今日も途切れることなく語られていた。つまりは日常、きり丸のいう通りである。

「きり丸君といる時も、不運に巻き込まれるの?」
「うーん……それなりっすかね。
 この間はこの店の前で、お茶掛けられてましたよ」
「わぁ」
「けどお詫びに団子もらって」
「良い町ねぇ」

 山を越え話に夢中になっているうちに辿り着いた町は、活きがいいところだった。賑わっているのを見渡し「私は好き、この雰囲気」と付け足す。
 団子屋、着物屋、小物屋……と様々なお店が立ち並ぶ中、きり丸は「ここっす」と比較的静かな場所を選んで腰を落ち着けた。

「ここなら、人もいるけど煩すぎないんで、声がよく通るんっすよ」

 言いつつ茣蓙の上に商品を並べていくきり丸に合わせ、名前も風呂敷を下ろすと物を取り出していく。並べ方にもコツがあるらしく、なるべく見栄えが良いように配置していくきり丸に、思わず名前は「すごいわね」と呟いた。

「慣れっすよ。慣れ。
 乱太郎達にとっての不運が日常のように、俺のこれも日常なんっす」
「そうねぇ」

 ずいぶん賢い子だ、この年でそれが言えるとは
 名前が感心している間にあれよあれよと準備が整えられ「さぁ気合入れますよ!」きり丸の強い声に名前は頷いた。大きく息を吸って

「いらっしゃーっせー!」
「いらっしゃいませー!」

 道ゆく人々はちらほら振り返るが、足を止めることは滅多にない。手に取る人がいると嬉しそうに声を弾ませるきり丸を尻目に、名前も声を張り上げる。

「こちら、とっても可愛らしいですよぉ。どれ、お嬢さんこちらはどうですか?
 そちらのお着物によく似合うお色で?」
「あら、どうかしら」
「あぁ、その傘の留め具にも合いますねぇ」
「……買おうかしら」
「毎度ありがとうございます」

 すると隣できり丸が「良いんじゃないっすか?」と笑った。なんでも、もっとひどい販売を想像していたというのだから嘆かわしい。
 「天女」も随分甘く見られたものだ。売り子なんて未来にもある職業だというのに。

「きり丸君が驚くぐらい、売り上げてみせるから」
「そうこなくっちゃ!」
「いらっしゃーい!」