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「……まさか。どうやって」
「あいつの顔がお前に見えない瞬間……例えば伊作が蹴り上げたときに、名前はお前の右後ろをじっと睨みつけていた」
「そっちにはまだ誰も落ちていない落とし穴があると、昨日体育委員会で話したんだ。だから名前は、いさっくんをあの木の下まで誘導したんだろう」
「もそ……あいつは、伊作が不運を発動して、落とし穴に落ちることを分かっていた。もそ」

 信じられない、と伊作がひとりごつと留三郎も呆れ顔で首を振った。「もしあのペンダントがなければ、アイツはやっぱり間者じゃないかと疑っているところだ」と言うが、あの場にいた全員が同じ気持ちだっただろう。学園長だけは、なぜかとても嬉しそうにしていたが。

「だから! 俺は腹が立っているんだ!
 それができるのに、俺の首を何度も何度も……なぜ触るだけで、きちんと攻撃を加えなかった!?」
「文次郎にその価値がないと思ったからじゃないか?」
「はぁ!? どういう意味だ留三郎!」
「そのまんまの意味だよ、バァカ。決定打を与えたら、お前が怖がっちまうと思って優しくされたんじゃねーの?」
「はぁ? んだと、」
「いや。それは絶対に違う」

 なんで伊作は言い切れるんだ、と文次郎が向かいから身を乗り出した。

「実は昨日、名前さんが筋肉痛がひどくて保健室に来たんだ。すごく痛がっていたから……今日は、殴ろうとしてもうまく殴れなかったはずだよ。
 そもそも名前さんはあまり筋肉質じゃないからね。文次郎にとっては屁でもない攻撃も、全て本気だったのかもしれない」
「……なるほど。だとしてもなんで首を触ったり、胸を突いたりしたんだ。必要ねぇだろう」
「ふんっお前ごとき、いつでも殺せると言いたかったんじゃないか? お前程度のザ、コ、なら」
「んだとてめぇ! お前だったらアイツに勝てたとでもいうのか!?」

 帰る!と文次郎は机を強く叩きつけて立ち上がると「鍛錬だ、鍛錬が足りん! おい、三木ヱ門!」と食堂の中央で息巻いた。言下ガチャガチャと響いたご飯を掻き込む音に

「伊作、眉間に皺が寄っているぞ……まぁ会計委員会のために、適切な鍛錬のガイドラインでも作ったらどうだ」
「言われなくてもそうするよ、仙蔵。焚き付けられた文次郎のせいで、三木ヱ門たちが体調を崩さないようにね」
「あぁそうだ俺も、今日は臨時で用具委員会の在庫確認をするんだった! おーい作兵衛ー!」
「もそ……今日は図書委員会に、天女が来る」
「そうか! アイツ意外と楽しい奴だぞ!」
「もそ」

 そうして次々と人が食堂から去っていくなか、伊作はずっと味噌汁を啜るとすっかりくつろいでいる両隣の2人を見た。よく食堂に残る仙蔵はまだしも

「珍しいね。今日はないの? 体育委員会」
「あぁ! 名前がいるっていうんで三之助たちが張り切って、昨日はすっかり疲れていたからな!」
「……明日は雪だな」
「うん、そうだね」
「なんでだ? まだ冬じゃないだろう。ま、それはどうでもいいんだが」

 うってかわって真面目な表情になった小平太に、伊作と仙蔵は顔を見合わせた。

「なんで名前はあんなことをしたんだと思う?」
「あんなこと?」
「だから、首を触ったり胸を突いたり……」
「どうして急に」
「まぁ、なんとなく気になって?」

 なんだそれはという仙蔵につられて笑う。しかし「私は真剣だぞ」とこれまた珍しいことを小平太が言うものだから、再度仙蔵と伊作は顔を見合わせ首を捻った。

「分からないなぁ。なんでだろう」
「……本当に、お前なんて大したことないというつもりだったんじゃないのか」
「ええ、本気かい?」
「やっぱりそうだよな! 文次郎に噛みつくぐらいだ、名前もずいぶん負けん気が強い!」

 満面の笑みを浮かべた小平太は「体育委員会に入んないかなー」と足をぶらぶら揺らし心底楽しそうである。だが
 僕としては勘弁してほしいなぁ
 ポツリと伊作は呟いた。名前は伊作たちに比べれば筋力が圧倒的に足りない。本人にもその自覚はあるらしく、仙蔵によると夜中鍛錬に励んでいるそうだが、それでも体育委員会に入るならもう少し基礎が固まってからでないと。と、何度言おうが聞いてくれないから面倒なのだけれど。

「しかし、面白くなってきたんじゃないか」
「えっ」

 伊作は思わず振り返った。

「お! 仙蔵は今回の天女がお気に召したようだな!」
「そういう言い方はよせ。誤解が生まれる」
「そうか? いいじゃないか。アイツは鍛錬が好きだし、6年が陥落させられたらむしろ技に磨きがかかりそうだぞ!」
「それでも天女の優先順位が一番になると、いろいろ支障をきたしそうだけど」
「そもそも私はアイツが好きなわけではない」

 はぁとため息を吐くと仙蔵は立ち上がった。

「私も作法室に顔を出してくる。じゃあな」
「私も裏裏山までひとっ走り行ってこようかなぁ。伊作もどうだ?」
「い、いや僕は遠慮しておくよ……今日は新しい薬の調合をしようかと思っていて」

 右から左から、纏わりついて「一緒に行こう!」と誘ってくる小平太をいなしながら、まずは鍛錬ガイドラインを作ることからだなと伊作はひとりごちた。




「……ここ、どこ」

 茫然と名前は立ち尽くした。学園長庵から図書室まで、この道を真っ直ぐと小松田は言ったが

「突き当たりに出ちゃったんだけど……」

 “ポンコツ事務員”と呼ばれている理由はよく分かった。名前は確実に、他の人に道を聞くべきだったのである。例えば、学園長庵で昼食を共にしたヘムヘムなど。

「……まぁ、とりあえず来た道をもどっぁぁああああああ!」

 ドンっと深い穴の底に背中を打ち付けた。
 えっ……なに
 落とし穴に落ちたのか、と数秒かかって理解する。保健委員会が落ちているのは幾度となく目にしてきたが、ついに自分も嵌るとは。どうやって出るんだ、とひとりごちて顔を上げると

「おやまぁ、珍しいのが引っかかった」
「……こんにちは。この穴君が掘ったの? すごいね」
「まぁ」
「それで、情けないんことに……あまりに立派で出れそうにないんだ。悪いんだけど、ここから出るの手伝ってくれない?」
「えぇー自分で出たらどうですかぁ?」