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「ごめんよ、三郎」
「良いんだ雷蔵、気にしないでくれ」

 並べられた豆腐料理をどれから食べるか、悩みすぎて吹っ切れた雷蔵が「えーいこれだ!」と皿を持ち上げた瞬間、豆腐が見事に三郎の顔にヒットした。いくら不測の事態といえど、雷蔵が選んだものを見ようと覗き込んだ三郎も十分悪い。が、

「お前だよ、勘右衛門」
「悪かったって……だけど豆腐を拭き取るでもなく一瞬で面を変えられちゃ、いくら名前さんでも混乱するだろう?
 あんなに眉間にシワを寄せられたら、変装だと教えてあげないわけにはいかないよ」
「ほっときゃいいんだそんなもん」

 はぁ、と溜息をつくと名前が「……これが矢羽音か」と感心したように呟いた。

「授業で習いましたか?」
「うん。みんな何をもしょもしょしてるんだろうと思ってたんだけど、やーっと謎が解けたよ! やっぱり聞いていると、モールス信号みたい」
「もーるすしんごう?」
「こう……トンツーは『い』、トンツートンツーは『ろ』みたいな信号のこと」
「へぇ、そんなのが未来にもあるんですね」

 ほんっとうに呑気な奴らだ、と兵助が談笑するなか三郎は無表情のまま豆腐を口に運ぶ。量が多く楽しくもなく味わう気も起きず、これこそまさに豆腐地獄だと呟くと、向かいに座る勘右衛門が意味深な笑みを浮かべた。

「……なんだ勘右衛門」
「あー! そういえば、名前さん!」

 わざとらしい声音に三郎は思わず腰を持ち上げる。

「三郎の変装、見破ったんですよね?」
「っおい、その話は」
「どうして気づいたんですか? 曲者が三郎だって」

 すると「見破った、なんて大層なもんじゃないけどね」と名前は苦笑し

「鉢屋君、独特な匂いがするから」

 じっと見つめられた三郎はすぐさま自分の服に鼻を近づけた。忍者として匂いは最も忌避するものの一つ、それが残らないよう日々化粧も工夫し、今ではほとんど指摘されなくなったというのに。

「……匂うか?」
「うーん、5年になってから、三郎が臭うと思ったことはないけどな」
「獣並みに鼻の利く八左ヱ門がそういうなら間違いないね。僕も気にしたことなかったよ」
「おい。私の変装に綻びがあるのに、わざと匂いがするといっているのか?」
「まさか。そんな嘘言ったって意味ないでしょ」

 はぁとため息をついた名前は「私、他人より感覚が鋭いらしくて」と言って目の前の豆腐料理を持ち上げた。

「これとおんなじ豆腐、当ててあげようか?」
「分かるんですか!?」
「匂いと食感でね。これ、生前からの特技だから」

 生前、と口の中で反芻してから突っかかるのはそこではないと思い直す。

「そこまで言うならやってみろ」
「この麻婆豆腐と同じなのは……尾浜君の前のあんかけ豆腐、それから真ん中の冷奴、揚げ豆腐」
「本物だ!」

 飛びかからんばかりの勢いで立ち上がった兵助は、一頻り「すごい!」と騒ぐとギュッと名前の手を握った。

「今度、もっと色々な豆腐を食べさせてあげます!」
「いや、どれが美味しいとかが分かるわけじゃないんだけど……」

 肩を竦めた名前に一瞥もくれず、「今度できた街の豆腐屋の……」とぶつぶつ呟きながら袂から地図を出す。豆腐屋に強制連行するつもりだな、兵助。その姿を想像して思わず三郎は吹き出した。

「どうした、三郎」
「いや、これから本当の豆腐地獄が始まると思ってな」
「まさかとは思うけど、私を連れて行くつもりなの?」
「当然だろう。言っておくが、こんな量は序の口だからな。兵助の豆腐にかける情熱を舐めちゃいけない」

 わぁ、と眉を顰めた名前に「……せいぜい苦しめ」とひとりごち、三郎は一向に減る様子のない料理たちをかきこんだ。




「なんだ名前、仇討ちでも行くのか?」
「今日の授業もお疲れ様ね、立花君。疲れて頭でもやられた?」
「お前がずいぶん気合の入った顔をして、そんなところに突っ立っているのが悪い」

 名前は「……そんなところ」とおうむ返しに呟く。ただ3年の廊下に立っているだけで、どうして仇討ちだと言われるのか。

「言葉の綾だ。とにかく、これから何か大変なことでもあるのか」
「ええ……私はおそらく、たった今死んで以来最大の危機に瀕してる」
「手短にお願いする。これから作法委員のことで、藤内に用があるのでな」
「そう、それ。委員会のことよ」

 言下立花がピクリと眉を動かした。

「……会計か? 何か不安でも?」

 文次郎はああ見えて悪い奴ではない。なにを思ったのか心配そうな声音で名前を伺った立花に、違う違うと慌てて名前は頭を振った。

「たしかに不安は尽きないわよ? 勘ちゃんにメンバーを聞いて、昨日は眠れなかったぐらいだけど」
「勘ちゃん?」
「尾浜君のこと。彼がそう呼べというから……あの子ずいぶん手慣れてるわね。最初の懐柔役、勘ちゃんなら立花君とはまた違った方向からアプローチしてきて面白かったんじゃない?」
「巻き込まれ型天然、らしいが」
「誰が言い出したの、それ。天然は自分で天然なんて言わないわよ」

 すると立花は可笑しそうに笑った。確かにそうだななどと嘯いているが、学園一冷静だって自称するものじゃないと名前は内心でひとりごつ。が、

「問題はそこじゃないのよ」
「メンツ以上に会計委員会に心配事なんてあるか? 鍛錬と言ったって、体育委員会と同じようなものだが」
「会計なのに鍛錬なんかするの!?……じゃなくて、もっと根本的な話。会計委員会の場所が分からないのよ」
「団蔵が案内する予定だと文次郎から聞いたが」
「ええ。けどその団蔵が補習で呼び出されちゃって……代わりに地図を書いてくれたんだけど」

 見せてみろ、と言われて名前は地図を差し出した。

「建物の名前をわざわざ書いてくれたんだな」
「ええ、というわけで私も神崎君も2人して迷子になる未来しか見えなくて」

 はは……と名前の口から乾いた笑いが漏れる。立花ははぁとため息をつくと「藤内を貸してやる」と言い3年は組の扉を引いた。

「藤内はいるか? ああ、神崎もこっちに来い」