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「……大丈夫、今日はおにぎりを作るつもりで用意しちゃったから」
「ええー! とっても珍しい料理なんですよ!
 たしか……えっと、閻魔様の馬でイタッ父さん?」
「はぁ? 団蔵、なんだそれ」
「うーん、そうね」

 最近あまりには組と一緒にいるせいか、意味の分からない“は組語”を理解するコツを掴んできたと自負する名前はじっとその場で考えこんだ。
 まず、敬称を外すこと。そして接続詞やらそれっぽいものを抜きつつ、漢字の異音を考える。だから

「閻魔の馬でイタッとう……えんまのばでいたっと、えんまばでいたっと……
 ああ! エンバーデイタルト!」
「それです! エンバーデイタルト! 南蛮では四季の祈りを捧げる日に食べる、と聞きました」
「ざっくりとそんな感じではあるわね」

 卵やバター、塩、砂糖で出来る簡単な中世料理である。

「それなら私も未来で食べたことあるから、大丈夫。おにぎりの具材腐らせちゃもったいないし」
「そっかぁ。じゃあまた今度の機会に」
「誘ってくれてありがとね」

 すると左吉がほっと息を吐いたのが聞こえた。もしかして、左吉は嫌っている以上に“天女”という存在を恐れているのだろうか。

「名前さん、おやすみなさい」
「おやすみなさい、団蔵君……左吉君も」

 だが、左吉はふいっと背を向け食堂の方へ歩き出してしまう。
 やっぱり、嫌われているの方が正しいか……

「んじゃ、潮江もまた明日」
「ああ」

 仕事はない、などと言ったが目の前には帳簿が積まれている。大丈夫か、と口を開きかけるも触らせたくないかと思い直し、名前は会計室を出た。



「おい! おい、天女!」

 揺さぶられる感覚にハッと目覚める。

「あ、し、潮江」
「なんてところで寝てるんだ、夜の鍛錬の邪魔だ! というか、また伊作に怒られるぞ」
「後生だから善法寺には黙っておいて、お願い」
「知らん! そもそもなんで木に登って寝てるんだ。まさか忍者っぽいから、とかアホな理由じゃないだろうな」
「いや、ただ懸垂してたら疲れちゃって……とりあえず登って休もうかなと思ったら、そのまま。潮江ほんと、私のこと馬鹿にしてるよね」
「実際馬鹿だろう。とりあえず降りてこい」

 命令されたくないんだけど、と思いつつ名前は飛び降りた。月を見る限り、案外長い時間寝てしまっていたらしい。

「ふん、その程度の高さなら飛び降りれるようになったか」
「あら、毎日わざわざ観察してくれていたのね」
「うるせぇ。ろ組と木登りの授業をしてるのを偶然見かけただけだ」
「ふーん。で、なんで呼んだの」
「夕飯だ」
「は」

 名前は呆気に取られて潮江を見つめた。

「おにぎり……作ってくれたの?」
「馬鹿言え、仙蔵からだ。今日俺たちが使う予定だった小屋を壊したのは、ほかでもない仙蔵の焙烙火矢だからな。委員会でそれを知らず、食いっぱぐれたお前への詫びだそうだ」
「律儀ねぇ。で、なんで潮江が持ってきてくれたわけ」
「仙蔵に『どうせお前は鍛錬に行くんだろう。名前は図書室の裏で毎日鍛錬してるからついでに渡してこい』と頼まれた。ものすごーく面倒だったがアイツの頼みは断れん」

 堪えきれずふふっと笑いが漏れる。

「なんだ」
「いや、優しいなと思って」
「…………誰が」
「潮江よ。そこら辺に捨てたって良かったのに、渡すためにわざわざ起こしてくれたし」
「そりゃお前が邪魔だったからな。それに捨てるったって、万が一仙蔵にバレたら厄介でしょうがねえ」
「まーそれもそうだけど……ありがとう、悪かったね」

 今まで大人げなくて、と胸の内で付け足す。

「……おい、そこの枝にぶら下がってみろ」
「え、うん」
「そうだ。よし、その上の枝に飛び移れ……違う、そうじゃない。怖がるな」

 名前は枝に乗っかったまま潮江を見下ろした。
 
「どういうこと?」
「ここに来て後ろから見てろ」

 名前が地面に降り立つと潮江は不適に笑った。「忍者はそうじゃない」言われた言葉に眉をひそめる。
 だがたしかに、潮江は忍者で名前は全く忍者ではなかった。根本から見上げる、潮江がサッサと登っていく姿は

「……まるで猿」
「分かったか」
「まぁ……多分」
「もう一回だ」

 潮江は何度も実演して見せた。名前を前に置き、後ろに置き、中腹まで登らせ、名前ができそうと声を上げるまで何度も。

「よし、できそうか。なら」

 潮江はその高い木の天辺まで登ると、月を背に名前を見据えた。

「ここまで来てみろ。そうしたら……今までの態度を、改めてやらなくもない」
「……やってやろうじゃないの」

 名前は手頃な位置に捕まると、潮江がやったように次から次へと枝を飛び移っていった。大事なのは、恐怖心を捨て一瞬でバランスをとること。
 止まるな、止まると怯えて足が止まる
 名前は自分に言い聞かせた。止まるな、スピードの遅い者は決して忍者とは呼ばれない。

「……っはぁ、どうよ」

 幹を挟み、間近で見る潮江は呆れたような顔をして笑っていた。

「小平太が、名前は負けず嫌いなところが好ましいな!と言っていたが」
「本当に負けず嫌いだなぁって? 余計なお世話」

 でも、ありがとう。
 少しだけ頭を下げると、潮江は「気にするな」と言ってそっぽを向いた。

「……今日書いてもらった手紙だが、時間がかかった分よく出来ていた。これなら少しぐらい、帳簿も任せられるだろう」
「そ。なら今からしっかり寝て、明日の委員会に備えなきゃね」

 名前はひとつ前の木に飛び移った。

「明日から、木から木へ素早く移動する練習も始めなきゃいけないし」