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 ついにポロリと雫が頬を伝い、名前はブンブンと首を振った。考えたら負け。
 名前はパチンと電気を消し、自室に戻るとベッドに入った。母が「遅くなってごめんね」と抱きしめてくれるのを待ちながら。
 が、朝日と共に目が覚めた。誰も帰ってきた形跡がない。
 次の日も、そのまた次の日も。
 帰ってこないどころか連絡すらない。だんだん腹が立ってきた名前は、学校で机をダン!と叩く。

「蒸発か!? 蒸発するぐらいなら恋人いたことぐらい教えなさいよ!」
「飛躍しすぎだ、バカ名前」
「だって」
「お母さん、名前のこと大好きじゃん。絶対に蒸発なんてしてない。
 てか名前から連絡しないわけ?」
「できたらしてるよ。お母さんの携帯は今ないの、会社の飲み会で酔っ払って水没させた上に、同僚にヒールで踏み抜かれてるから」

 で、その飲み会の次の日に失踪したというわけだ。電話番号など知る由もない。
 加えて、手掛かりのために探った母親のデスクからは、手帳も、日記もアルバムも全て無くなっていた。ケースや、装丁が同じ未使用のものが乱雑に積まれていたせいで気づかなかったが。
 もはや、名前に異変を悟られないために工作していたのかと疑うほど母親の形跡は残っていなかった。

「捜索願いは出したから、警察からの連絡を待つ」
「なにか困ったことあったら、絶対相談して」

 もちろん、と名前は頷いた。が、

「は、母が亡くなっていたって……本当ですか」
「はい。死亡推定時刻は……」

 家にやってきた警察は、淡々と語った。一週間前の午後3時、つまり名前の誕生日に母は────自殺した、という。
 友達に相談できるか、こんなの!

「……じ、さつ、ですか」
「郊外にある米花湖のほとりで首を吊っているところが確認されました。間違いありません」
「本当に、本当に自殺ですか?」

 名前は食い下がる。どうして自殺だと言い切れるのだろう?
 名前の手には、亡くなった日の当日、16:15からの映画のチケットが握られている。
 母のデスクに唯一残されていた、名前の見たがっていた作品のチケット2枚────つまり、母は誕生日プレゼントとして、その映画を名前と見ようとしていた。たったそれだけを残したのは恐らく、自分が進んで死を選んだわけではないと、名前に知らせ真相を究明させるためだろう。
 警察は頼りにならない。何も教えてくれないし、資料すら渡してくれなかった。
 周りを巻き込めるわけもないから、残されたのは、自分が警察になるという選択肢のみ。名前は迷わず警察になり、母が公安局員だったことを知り、黒の組織のことを知り、本懐を遂げず殺された。
 だから名前は願ったのだ。「初めからやり直せたらいいのに」と。


 名前は目を閉じて、ふっと肩の力を抜くと笑った。

「覚えているでしょう? このペンダントの中にいた、私の母親」

 優しくペンダントを撫でる。母が残してくれた、唯一の形見。

「母はね、私が15歳の誕生日に、私が生前潜入していた組織に殺されているの」

 尾浜だけでなく、それまで胡乱げに紙をめくっていた鉢屋まで目を大きく開けて名前の顔を見た。

「……まさかとは思うけど、名前は母親の復讐のために組織に潜入して……」
「任務に失敗し、殺されたのか」

 名前は頷いた。

「つまり、名前は……母親の復讐を始めからやり直したいと願ったのか?」
「そうね。だって15歳からの私は、それのために生きていたから。その結果がこれじゃあ、あんまりじゃない?」

 おどけて小首を傾げた名前に「じゃあなんでここに来たんだ」と鉢屋がため息交じりに机を指で叩いた。

「ここにお前の母さんはいない。母さんと名前を殺した奴もいない。ここで出来ることはなにもないぞ」
「もし本当に神様が天女の願いを聞き入れてここに天女を送っているとしたら、名前には復讐以外にもなにかやり直したいことがあったんじゃない?」
「……それは、」

 言いかけて名前は口ごもった。復讐以外にやりたいこと。
 母が亡くなってからの自分の人生を思い出す。死の真相を知りたくて警察官を目指して、勉強して、潜入して────私の人生は、復讐そのものだった。

「そもそも、15歳以降の人生で復讐以外のために何かをした記憶がないから、やり直すも何も」
「じゃあ、復讐以外でやり残したことがあるんじゃないのか?」

 やり残したこと。尾浜の質問を口の中で質問を転がす。……やり残したこと?

「ない?」
「ない。そもそも、復讐以外にやりたいことが無かったと思う」

 鉢屋と尾浜が信じられないと言わんばかりに目を合わせた。

「お前……成仏までの道、遠そうだな。天女たちが成仏できなかった理由も分からず、自分の願いすら分からないときた」
「せっかく手がかりは掴んだのに。ま、俺はそれで丁度いいけど」

 なにそれ、と名前が眉をしかめるが尾浜はひらひらと手を振って笑う。

「それより、そろそろ6年長屋に行く時間じゃないか? 遅れたら先輩方にどやされそうだ、俺たちまで含めて」
「嫌だな。私はもう失礼する」
「俺も!」
「んっとに調子いいんだから」

 跡形もなく消えた二人に肩を竦め、名前は蠟燭を吹き消した。





 今晩は珍しくい組の部屋での会議だった。が、あまりに綺麗に片付いているせいで、余計に場の空気が冷えていくようである。
 伊作の背中に嫌な汗が伝った。隣に座る留三郎も向かいにいる文次郎も、珍しく狼狽した表情で仙蔵と名前を交互に見遣る。あの小平太ですら声を発しない。

「だから、名前は作戦実行部隊には入れんと言っている!
 いいか。我々の作戦は、い組との密会に団蔵を連れていき、見取り図をめちゃくちゃにするというというものだ。私たちには後輩の命がかかっている。
 小藍がどんな奴か分からん、もっといえば手練れの忍者である可能性がある以上、お前を連れていくことはできない」
「それは何、私の実力があなた達よりも劣っていると言いたいの?」