● 夜半の世迷事
鞄からラップトップを取り出し、慣れた手付きで起動させた棗の纏う雰囲気が変化したのを感じ取って、降谷はフッと笑みを浮かべた。──この分なら、本当に大丈夫そうだな。声には出さず、心の裡だけでそう呟くと、此方も鞄から資料を取り出して簡単に今回の“依頼”の内容の説明を始めた。
「×××という会社は知っていますか」
そう訊ねつつ、その会社の情報が纏められた資料を棗に見せる。すると、会社名に聞き覚えがあったようで、棗は納得したようにひとつ頷いた。
「ああ...あの会社ですか」
──厄介な取引に関わってるんでしたっけ。手許の資料に目を通しながら、彼女はそう言葉を続ける。
「それで、具体的には何をすれば?」
「顧客データの抜き取りとセキュリティシステムのハッキングをお願いしたいんですが...」
「分かりました」
恐らく先程手渡した資料と依頼の内容について纏めているのだろう、素早くブラインドタッチを繰り返していた彼女がふと此方を見て問う。
「期限はいつまでですか?」
「どのくらい掛かりそうですか?」
試すようにそう問い返すと、彼女はちらりとラップトップの画面に目を移して「...三日あれば…」と呟いた。何気ないその返答に思わず「...三日?」と声が漏れる。というのも、先程棗に告げた依頼の内容は、精鋭揃いのゼロでも完了するまでには恐らく一週間程度は要するだろうと想定されたものだったのだ。驚愕している降谷の様子を気にすることもなく、ええ、と頷くと棗は事も無げに話を続けた。
「データの抜き取りとセキュリティシステムのハッキングくらいなら、三日で十分ですよ。何だったらデータ破壊とかも付けます?」
特に気負った様子もなくそう返す彼女にぱちりと瞬いて、ややあってから降谷は思案顔で頷いた。......成程、彼女はやはり天才らしい。
○●○
夜の米花町は静まり返っている。それもそのはず、今は午後十一時、駅前なら未だしも住宅街はすっかり眠りに就いた時間だった。...もし警官が通りかかったら補導されるかもしれないな、なんて思いながら歩いていく。何故こんな時間に外を出歩いているのか、その問いの答えは単純明快だ。──棗は空腹だったのである。
時間はほんの少し巻き戻って、アパートの自室にて。
カチリ、とエンターキーを押す。ディスプレイに『送信完了』というメッセージが表示されたのを確認すると、わたしはほっとため息をついた。
ちらりと壁に掛かった時計を見遣れば午後十一時を過ぎた頃で、結構長い間集中していたことが分かる。何時間だろう、指を折って数えていると思い出したように腹の虫が鳴いた。うーん、とひとつ伸びをして立ち上がる。欠伸を零しながらキッチンへと向かい、冷蔵庫を開けて中身を確認してわたしはがくりと項垂れることになった。...中身は見事に空っぽだったのである。この間、病院の帰りにでも買っておけばよかったな...とため息をつく。こんな時間から外に出るのは面倒だが、腹が減ってはなんとやら、である。そんなわけで、手早く身支度を整えると、わたしは渋々アパートを出たのだった。
これまでの経緯を簡単に思い返しながら、静かな町を歩いていく。すると、前から見覚えのある車が走ってくるのが見えた。白のRX-7、...確か降谷さんの車だったか。RX-7はそのままわたしの横を通り過ぎて行った...かと思うと物凄いスピードで戻ってきた。他に車が通っていなかったから良かったものの、中々に危ない運転である。ぼんやりとその様子を眺めていると、車の窓が開けられて焦ったような表情を浮かべた降谷さんが顔を出した。今日は先日のようなスーツではなく、私服姿だった。お洒落だけど何処と無く黒っぽい服装だ。今日は“組織”の一員としての仕事だったのだろうか。
「...棗さん、こんな時間に何をしてるんです?」
「あー...えっと、ご飯...買いに?」
「...本気で言ってます?......分かりました、取り敢えず乗ってください」
しどろもどろなわたしの返答に驚きと呆れの混ざった視線を寄越して、降谷さんは助手席のドアを開けた。「...?」眠気で鈍った頭でいまいち状況を把握出来ず、それをぽかんと眺めていたわたしに痺れを切らした降谷さんがもう一度口を開いた。
「こんな時間に女性を一人で出歩かせるわけにはいきませんから、乗ってください。何処に行くつもりなのか分かりませんが、送りますよ」
...ああ、成程。このくらい別に大丈夫ですよ、と言おうとしたのだけど、降谷さんの咎めるような視線に負けてわたしはありがとうございます、と頷くと助手席に乗り込んだ。...言い訳をさせてほしい、その時、わたしは眠かった。そして、空腹だった。頭なんて禄に回らなかったのだ。
「降...あ、“安室さん”?」
「ああ...今は“降谷”で大丈夫ですよ。この車には盗聴器の類いは仕掛けられていませんから」
本名を口にしかけて躊躇ったわたしの意図を察したのだろう、降谷さんは苦笑した。
「そうですか、それは良かった。...あ、降谷さん、そこのコンビニでいいです」
「分かりました。...抑も、盗聴器の類いに貴女が気づかないわけがないでしょう」
わたしの言葉にひとつ頷いた降谷さんはウインカーを出して車を停める。こちらを窺うように言われた言葉に買い被りすぎだと手を振った。
「やだな、そんなことありませんって。...“仕事”の後なんですから、気を遣いますよ」
「...やはり、気づいてましたか」
はあ、とため息をひとつついた彼に、わたしは勿論、とにっこり笑ってみせた。
「ええ、まあ。...あ、ここまでで大丈夫ですよ?」
駐車スペースに車を停めた降谷さんにシートベルトを外しつつそう言うと、彼はまた呆れたような視線を寄越した。「...何のためにここまで送ってきたと思ってるんです...帰りも送りますよ。さ、行きましょう」なんて言ってわたしの乗っていた助手席のドアを開けてくれる。
「(着いてくるんだ、別にいいんだけど...ちょっと意外)...ありがとうございます?」
「なんで疑問形なんです、貴女は...」
降谷さんはまた呆れた顔をした。...あれ、これで何回目だ。わたしはそんな顔をさせるようなことを言ったつもりはないのだけど。...まあそんなこんなで二人でコンビニに入り、「らっしゃーせー」という店員の気だるげな挨拶を受けてさっさと夜食と明日の朝食だけを籠に放り込んでいく。隣でその様子を見ていた降谷さんが何か言いたそうにしていたが、それはスルーしておく。わたしだって、忙しくないときは自炊くらいしている。...ただ、偶々今回は依頼と課題が重なって立て込んでいただけだ。内心では言い訳を並べ立てつつ会計を済ませる。振り返って「お待たせしました」と言うと、降谷さんは「いえ、大丈夫ですよ」とにこりと微笑んだ。相変わらず綺麗な笑みだった。
「あ、そうだ。頼まれてた件、終わりましたよ」
再びRX-7に乗り込んでそう言うと、降谷さんは今度は驚いたような顔をした。
「えっ、ああ、分かりました...まだ三日も経ってませんよ」
「ふふ、頑張ったので。指定されたURLに送っておきましたから、後で確認しておいてくださいね」
「分かりました。一度確認させて頂いてから、また謝礼について連絡しますね」
「はい、お願いします。...ああ、ここまでで大丈夫ですよ。うち、すぐそこなので。ありがとうございました」
アパートの近くまで来ると、わたしはそう言って降谷さんを止めた。自宅の場所を知られても特に困るわけではないが、何となくだ。ハッカーとして動いている以上、個人情報を他人に渡すのは出来るだけ避けたい。情報の価値を、その重みを、わたしは知っているのだ。...まあ、自宅の場所なんて大した情報でもないけど。
「いえ、それじゃしっかり休んでくださいね」
そんなわたしの思惑に気づいているのかいないのか、降谷さんは真意の読めない笑みを浮かべた。
「降谷さんも。それじゃ、おやすみなさい」
「...ええ、おやすみなさい」
わたしの言葉にそう返したときの降谷さんの雰囲気が、先ほどのものよりも少しだけ柔らかかったような気がするのは...気の所為、だろうか。
──おやすみなさい、だなんて。そんな言葉を掛けて貰ったのは、何時ぶりだろうか。仕事の為に関係を持つことはあっても、ここ何年も“そういう存在”にはとんとご無沙汰だった彼にとっては、何気なく口にしたであろう彼女のその言葉が優しい響きを持った、随分と眩しいもののように思えた。
──悪くないな。
胸の裡に宿った微かな温もりに、降谷は静かに目を閉じる。我知らず、ふっと小さく笑みが零れた。
(うーん...やっぱり家の場所バレたかな...まあいっか、あの人なら調べようと思えば簡単に調べられるだろうし)
(...温かい、な。ああ、...悪くない)
170615.
Title:Rendezvous