日溜まりの中の狡猾

その日は珍しく目覚めがよかった。
元来、棗は朝には強くない方である。一度集中すれば徹夜するのはそこまで苦痛に思ったことがないのだが、その反動なのか何なのか、寝起きはどうも悪かった。ところが、今日は数回目の目覚ましで随分とスムーズに目を覚ますことが出来たのだ。普段であれば目覚まし数回どころか、スマートフォンの目覚ましでは事足りず、枕元に置いてある幾つかの目覚まし時計に叩き起されているにも関わらず、である。
──これなら問題なく間に合いそうだな、そう考えて棗はベッドから身を起こした。身支度を整えながら、先日──今日の約束を取り付けた日に彼女と交わした会話をぼんやりと思い起こす。
「そういえば最近不審者が多いらしいわよ。貴方なら大丈夫だと思うけれど...でも貴方、夜中でも普通に出歩きそうだから、気をつけた方がいいわよ」
「わたしなら大丈夫だよ。大抵の不審者なら昏倒させて警察に突き出せるし...それよりも、不審者なんて寧ろ哀ちゃんの方が危ないんじゃない?...忘れなかったら、帰ってからちょっと見てみる、、、、ね」
...すっかり忘れていた。案の定、その会話は棗の記憶から綺麗に抜け落ちていた。とはいえ、今日は珍しいことに時間に余裕がある。まあ今からでもすぐに片がつくだろう、と行儀が悪いとは思いつつもトーストを咀嚼しながらラップトップの画面と向き合う。相変わらず緩すぎるセキュリティだな、と半ば呆れつつ、お目当てのデータに辿り着く。
「このくらい...かな」
必要なデータだけを抜き取り、遅れてやって来た追跡をあっさりと交わしつつ複数のサーバーを経由して速やかに撤退する。
「よし、完了...」
抜き取ったデータの一部をスマートフォンにコピーすると、棗はふう、と息をついてラップトップの電源を落とした。そして、後片付けを済ませてアパートを出た彼女は愛車に跨って朝の米花町を軽快に走ってゆく。愛車を走らせることほんの数分で、彼女は少々風変わりな外観の一軒の邸宅の前にバイクを停めるとフルフェイスのヘルメットを外した。
「おはようございます、博士。哀ちゃん居ます?今日一緒に出かける約束してたんですけど...」
「ああ...棗くんか、おはよう。哀くんを呼んでくるから、」
「あ、棗お姉さん。ちょっと来てくれない?調べたいことがあるんだけど」
応対に出てきてくれた博士──阿笠博士と玄関先で話していると、博士の背後から工藤新一が顔を覗かせた。...いや、この場合“江戸川コナン”と呼ぶべきだろうか。訳あって棗は彼やもう一人の少女の正体も知っている。幼馴染のことを考える蘭の寂しそうな顔を見る度に盛大にネタバレしてしまいたくなるのだが、その度に彼に怖い顔で睨まれるので諦めているのが現状であった。彼の睨みはとても小学一年生のそれとは思えないのだ...まあそれに屈するほど棗も柔な性質ではなかったが。
「あれ、コナンくんも来てたんだ。わたし、この後哀ちゃんとショッピングに行く予定なんだけど」
棗がそう声を掛けると、コナンは訳知り顔で頷いた。
「ああ、知ってるよ。灰原はもう少し支度に時間が掛かるらしいから、その間だけ。いいだろ?」
「んー、まあ、それなら...博士、哀ちゃんを待ってる間、お邪魔してもいいですか?」
背後のドアを見遣ってから素の口調で言ったコナンの言葉にちらりと博士を窺うと、彼は鷹揚に頷いて室内へ招き入れてくれた。相変わらず、寛大な人である。
「ああ、構わんが...新一、さっきから調べておった件か?」
「ああ。ちょっと厄介でな...棗なら何か分かるかもしれねぇし」
「なあに、そんなに面倒な話なの?...もしかして、例の“組織”関連の件?」
棗を室内へと招き入れながら、彼らが例によって不穏な会話をしているのでそう尋ねてみると、コナンは渋い顔をして首を横に振った。
「いや...それは、今のところは何とも。ただ、此処のプログラムが...」
「おはよう、棗。待たせたわね」
ちょいちょい、と手招かれてソファに座り、二人で彼の所持するラップトップを覗き込んで説明を受けていると、涼やかな声がコナンの言葉を遮った。その声に顔を上げると、そこには赤みがかった茶髪に整った顔立ちの“もう一人の少女”──灰原哀が立っていた。
「あ、哀ちゃん!おはよう」
「棗、バイクは外に停めてあるのよね?江戸川君、彼女は借りていくわよ」
「工藤くん、さっきのデータあとでわたしのPCに送っといて。状況によっては、お手伝いも吝かじゃないからね」
哀に手を引かれながら、棗がコナンにそう言葉を返すと、「ああ、わーったよ」と彼はディスプレイを睨んだまま答えた。あの分なら態々自分が出張ることもないかな、と考えながら棗は愛車のエンジンを掛けた。

◯●◯

「さっきの、何かあったの?博士も江戸川くんも...」
「ああ、ちょっとね。もしかするとまた依頼が来るかも、って感じかな」
先ほどと同じように軽快に閑静な住宅街を走り抜けつつ哀の言葉にそう答えると、彼女は半ば呆れたようにため息をついた。
「...ほんと、貴女ってよく働くわよね。本業の方は大丈夫なの?」
「本業、ね...うーん、そろそろどっちが本業なのか分からなくなってきたからなぁ...」
言いつつ棗は小さく苦笑した。本業といっても、高校は通信制であり、日々の生活はすっかりハッカーとしての仕事が中心になっている。そう言うと、哀は諭すような声音になった。
「駄目よ、“昼の世界”と関わりを持てているのなら、それは捨てるべきじゃないわ」
「ふふ、...うん、分かってるよ。大丈夫」
「...子供扱いは止めてよね。...ちょっと、ねえ、あれ...」
ちょうど信号に引っ掛かったので、振り返ってヘルメット越しにぽんぽん、と頭を撫でてみると顔を顰められた。中身はともかく、見た目だけなら、彼女はまだ可愛らしい小学生なのだが...とその様子を苦笑しながら眺めていると、彼女は何かに気づいたように小さく一点を指さす。その示す方向をちらりと一瞥して、棗は頷いた。
「あー...うん、分かってる。めちゃくちゃ不審人物じゃない?」
コナンと哀を除いた少年探偵団の子供たちが何やら話しながら通りを歩いている...それだけなら良かったのだが、問題はその後ろを歩いている男にあった。ただ歩いているわけではなく、...その男は子供たちの歩幅に合わせて、こそこそと後を尾けていたのだ。
「ええ...この間学校で聞いた不審者に背格好がそっくりなのよね...」
心配そうに続けられた哀の言葉にひとつ頷くと、わたしは鞄からスマートフォンを取り出してあるアプリを起動し、彼女に差し出した。暫く画面を見つめていた彼女がやがて頷いたのを確認して、棗は笑みを浮かべた。
「...よし、分かった。ちょっと待ってて?」
「...くれぐれも無茶はしないでね」
──貴方のことだから、大丈夫だとは思うけど。そう続けられた言葉に頷いて笑みを返すと、棗は道の脇にバイクを停めてヘルメットを外した。
「うん、それも分かってるよ、哀ちゃん」

尾行なんてして不審者呼ばわりされている割に、男の背中はガラ空きだった。警戒心の薄さと詰めの甘さに組織の手の者ではないことを確信して少しだけ安堵する。気配を消しつつ背後から静かに近寄って、スーツ姿の男の肩に徐に手を掛けた。
「すみません、何してるんですか?...この子たちに何か?」
「っ、棗お姉さん...!」
尾行されていることには気がついていたのだろう、泣きそうな顔をした歩美がぎゅっと腰のあたりに抱きついてきた。その様子を見て、男はぎょっとしたように表情を歪める。
「いや、ふっ、普通に歩いていただけですが...」
「へぇ...“普通に”、ですか?わたしは“普通”、子供たちを尾けてコソコソ歩いたりしないと思うんですけど...」
「俺は別に、つ、尾けてなど...」
「それに貴方...子供たちが学校で聞いたっていう不審者に背格好がそっくりじゃありませんか...あとこれ、見てくれます?」
苦し紛れの言い訳もあっさりと打ち破られて言葉を詰まらせた男に、畳み掛けるように棗は鞄から取り出したスマートフォンの画面を見せた。男が凝視しているのは、彼と全く同じ格好の人物が人目を憚るようにして子供たちの後ろを尾けていく様子が撮られた動画である。棗が今朝拝借したデータであり、先ほど哀にも見せたものだった。
「...っこれは、」
「この近隣の監視カメラの映像です。...コソコソとこの子たちを尾行する様子がばっちり映ってますけど、これはどう説明して貰えるんでしょう?」
にこり、笑みを浮かべて首を傾げる。
「...うるせぇ!人が黙って聞いてりゃ...」
追い詰められた男は強硬手段に出ようとした。いきなり棗に向かって殴り掛かってきたのだ。至極面倒だと言わんばかりに顔を顰め、棗はあっさりとそれを躱した。そして怯えた様子で此方を見ていた子供たちに笑顔で告げる。
「...みんな、わたしがいいって言うまで、ちょっと目と耳塞いでてくれるかな?」
「はい!」「うん!」「おう!」
「ふふ、ありがとう。...それじゃ、」
しっかりと返事が返ってきたことを確認すると、棗は鞄から愛銃のベレッタM92Fを取り出し、セーフティを外して銃口を男の心臓に真っ直ぐ向けた。
「...怖いのも痛いのも、嫌ですよね?」
「...!?!?」
男はただ呆然と向けられた銃口を見つめている。まあ、一般的な反応だった。ごく一般的な思考の持ち主であれば誰も、昼日中の住宅街で女子高生に銃を突きつけられるとは思わないだろうからだ。棗は笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「わたしやこの子たちの周りを金輪際彷徨うろつかないことですね。...今度お会いすることがあれば、もしかするとその時には手が滑ってしまうかもしれませんから」
にこり、浮かべた笑みをいっそう深くする。
「ああ、それと...このことは呉々も、他言無用に願います」
「ヒィッ...うわあああああッ」
漸く状況に理解が追いついたのだろう、青い顔をした男は情けなく逃走した。哀に頼んで警察には連絡を入れてあるので、すぐに捕まるだろう。男の走り去って行った方向に目を向けながらそこまで考えて、棗は背後の子供たちに声を掛けた。
「よし、みんなもう良いよー」
頑張ったね、と言いながら歩美の頭を撫でると、彼女は瞳をきらきらと輝かせて此方を覗き込んできた。
「あの人逃げてっちゃったね!棗お姉さんすごーい!」
「言い負かしちゃったんですね!」
「探偵のにーちゃんみたいだったぜ!」
子供たちから掛けられる純粋な賞賛の声が少し面映ゆい。それを誤魔化すように棗は笑みを浮かべた。
「あはは...大したことじゃないよ」
目をきらきらと輝かせた子供たちに囲まれて曖昧に笑う。子供たちが危なかったとはいえ、白日のもとに曝されれば自分のしたことも咎められるだろうしなあ...などと考えていると、バイクから降りた哀がちらりとこちらを一瞥し、子供たちに声を掛けた。
「貴方達...怪我は?」
「あ、哀ちゃん!歩美たちは大丈夫だよ!」
「棗お姉さんが助けてくれましたからね」
「それより灰原は何でここにいるんだ?」
「ああ、私は元々棗さんと出かける約束をしていたのよ」
「えーっ、いいなぁ!歩美も棗お姉さんと哀ちゃんとお出かけしたい!」
哀と子供たちの会話を微笑ましく眺めて、棗は不満そうにこちらを見上げた歩美に宥めるように言った。
「ふふ、じゃあ今度は三人で行こうか。...それじゃ、みんな。気をつけて帰るんだよ?」
あれから何の連絡も入っていないことをスマートフォンで確認しながらそう言うと、「はーい」と三つ、可愛らしい返事が返ってきた。
「じゃあね」
「哀ちゃんも棗お姉さんもまたねー!」
ヘルメットを付けた哀の言葉にニコニコと手を振る三人に笑顔で手を振り返して、棗はバイクのエンジンを掛けた。

「お疲れ様。...ねえ貴方、さっき銃で脅したでしょう」
「あはは、まあね。...大丈夫、あれで相当ビビっただろうから、もう現れないと思うよ」
バイクが走り出してから暫くして、背後から投げられた声にそう答えると哀は呆れたようにため息をついた。
「わたしが言いたいのはそういうことじゃないんだけど...まあいいわ、行きましょう」
運転中で見えないのだが、何と無く呆れた顔をされている気がする。...どの辺りに問題があったのだろう、棗はハンドルを握りながら内心首を傾げた。

...買い物を終えて帰宅した後で、「町中で無闇に銃を出さないでください...抑もなんであんなものを携帯してるんですか、此処は日本ですよ」なんて降谷からお叱りの電話が掛かってきて「ああ、成程」と膝を打つことになるのだが、それはまた別の話である。

(...っていうか、なんでそんなこと知ってるんですか)
(さあ、何故でしょうね?)

170716.
Title:afaik