ふわふわの不透明

“Hello, what's up?...Oh, I see. ...Regarding that matter you said the other day?......Sure. So, I'll access it before long. I'll contact you as soon as I find out about it. ...No, please don't concern yourself. ...Please excuse me now.”
(もしもし、ご要件は?...分かりました。先日仰っていた件ですね。......了解しました。では、近いうちに調べてみます。何か分かり次第ご連絡させて頂きますので...いえ、お気になさらず。それでは、失礼致します)

未明、──流暢な英語で担当者との通話を終え、棗は欠伸をひとつ零した。緩慢な動作で軽く目を擦ると、生理的に零れた涙が指先を濡らした。抑えようもない眠気が、ゆるゆると思考をも融かしていくような感覚に襲われる。目に涙の膜が出来たことで滲んだ視界も相俟って、目は醒めているはずなのに、夢の中にいるかのような錯覚に捉われる。棗は眠かった。
もうすっかり慣れたことではあるが、ひとつの大陸と幾つもの海を挟んでの通話である。勿論そこには時差も存在するのだが、電話口の相手はそこまで気が回っていなかったらしい。電話を切る直前になって、漸く此方の現在の時刻を思い出したようで、幾らか慌てた様子で夜分遅くに済まなかった、と慇懃な謝罪が付け加えられた。それに対しては、別に、まだ眠っていたわけでは無かったので構わない、と答えておいたけれど。ぼんやりと思考を彷徨わせていると、また欠伸が漏れた。...やっぱり、日付が変わってからの電話は止めて欲しいかもしれない。そう、棗は独りごちた。
元々、棗は諸外国の諜報機関からこうして電話で依頼を受けることが多い。特に最近はその傾向が顕著だったのだが、棗は彼らとの通話は出来る限り手短に済ませるようにしていた。何しろ、数千マイル越しに交わされる会話の内容が、相手の属する諜報機関の中でもごく一部にしか知らされていない、所謂機密事項なのである。いつ、何処で盗聴されているか分かったものではないのだ。それに加えて、国際電話は高い。長々と話せば値段は馬鹿にならない──まあ、事前に料金は向こう持ちだと言ってあるので、幾ら話が長くなろうと棗の懐事情に影響はないのだが。
忘れないうちに依頼の概要を手許のラップトップに簡単に文書にして纏めてしまうと、棗はベッドに戻って横になった。早めに寝ておかないと、明日(いや、もう日付が変わったから今日だが)は人と会う約束をしているのだ。先日約束を取り付けたときの、電話口の彼女の弾んだ声を思い浮かべつつ棗はベッドサイドの照明の電源を落とす。ゆっくりと目を瞑れば、視界は完全に闇に覆われた。

◯●◯

「あっ、棗ーっ」
指定された店に近づいて、棗は入り口の辺りでひらひらと此方に手を振るふたつの人影を認めた。今日の待ち合わせの相手である。フルフェイスのシールドを上げて軽く手を振り返し、減速して二人の前で愛車を停めた棗はヘルメットを取って口を開いた。
「ごめんね、待たせちゃったかな?」
「ううん、大丈夫。わたしも園子も、さっき来たところだったから」
「それより棗、本当にバイクの免許取ったのね!今度後ろに乗せてよ」
帝丹高校の制服に身を包んだ二人の少女。棗の言葉に答えて微笑んだ黒髪の少女が毛利蘭、バイクの二人乗りとかしてみたいのよね、と瞳を輝かせているカチューシャの少女が鈴木園子。先ほど棗を呼んだのも彼女である。「まあね。いつでもいいよ、基本的にはわたし暇だし」と言葉を返すと、園子は約束よ、と嬉しそうな笑みを見せた。二人は──ついでに幼児化しているけれど工藤新一も──棗の中学時代からの友人である。卒業後、“仕事”の為に彼女たちとは違う通信制の高校に進学したことを後悔しているわけではない。けれど、進学先が分かれたことで会う機会が減ったことは棗にとって中々に寂しいことだった。それを惜しんで頻繁に連絡を取り、こうして偶に外に連れ出してくれる二人の存在は棗にとって大切なものだった。実際、ハッカーという仕事の性質上棗はほぼ家に篭っているような状態で、一人で暮らしている彼女が寂しさを感じずに気ままに暮らせるのは彼女たちのような友人の存在があってこそのことだったのだ。

二人に連れられて、棗は新しく出来たのだという可愛らしいケーキ屋に来ていた。二人が見つけてきてくれたその店は、得意げな顔をした園子曰く先日雑誌にも紹介されたらしい。その評判も手伝ってか、店内に設けられたイートインスペースはその殆どが埋まっていた。棗たちも席を確保し、ショーケースに並べられた色とりどりのプティ・フールに三人は思わず感嘆の声を上げた。

「それでね、そのとき蘭ったらね...」
「ちょっと園子!」
中学生の頃と変わらず、楽しげな二人の会話を聞きつつ棗も笑う。ヒートアップしそうになったところで「まあまあ、落ち着いてよ二人とも」と双方を宥める。これも、中学生の頃と同じだった。
「そういう棗は?最近何かないの?」
無邪気な園子の問いに、棗はううん...と考え込んだ。何か、最近あったこと...まああったことはあったが、幾ら何でも金髪碧眼のイケメンに諜報機関への勧誘を受けました...なんて言えないだろう。少し考えてその結論に落ち着いた棗は、園子はさぞ残念がるだろうな、と思いつつも「うーん...まあわたしは基本的には引きこもってるだけだからね、特には何もないかな」と答えるに留めておいた。イケメン、と言えば園子は喜ぶだろうが、如何せん後者の内容が穏やかではない。
「ずっと引きこもってるなんて勿体ないわよ、華の女子高生だってのに!ねぇ、蘭」
案の定、棗の返答に不満げな口ぶりで園子は言う。
「そうだよ棗、わたしたちもっと頻繁に誘うね?」
そう言って顔を見合わせ、頷き合う二人に棗は苦笑した。女子高生、なんて言葉は、凡そ高校生らしくない生活を送っている自分にはそぐわないだろうと考えた──社会的な身分の上では、その呼称で間違ってはいないのだけれど。家の中に引き篭もってPCを相手にしている自分よりも、目の前の二人の方が余程、その言葉の響きが似合っているように思えたのだ。
「いや、別にそんな......」と言いさして、棗はこう言い直した。
「ううん、......ありがとね、二人とも」
そう言って棗が微笑むと、照れたように二人も笑みを浮かべた。
「何よ、改まって。友達でしょ?」
「うん。何となく、言いたかっただけなんだけどね」
──ありがとう、棗は口には出さず、もう一度胸の裡でそう呟いた。

その後は、いつものように他愛のない話で盛り上がり、申し訳なさそうに言われた蘭の「夕食の支度があるから...」という言葉でその日はお開きになった。「また近々連絡するからね!」という言葉に此方も笑って手を振り返す。数年前に戻ったようで楽しかった、と思いながら、棗は二人と分かれて機嫌よく帰途についた。しかし、愛車を走らせること暫くして、さり気なくミラーを確認した棗は心底面倒そうに表情を歪ませた。......尾けられている。厳つい見た目をした、左ハンドルの黒の車だ。顔は見えないが、日本ではあまり見かけないその車種からして、運転手は自分の予想通りの人物で間違いないだろう。そろそろ仕掛けてくる頃だとは思っていたが、よりによって今日とは。せっかく穏やかな日常を享受していたというのに、と嘆息する。先ほどまでの上機嫌は何処へやら、気分は一気に急降下である。腹いせに撒いてやろうかとも思ったが、例え今此処で逃げ果せたとしても、それで諦めてくれるような相手ではないだろう。大方、先ほどミラーに映ったのもわざとだ。逃げられはしない、此方にそう告げる為に。
──あぁ、面倒なことになった。棗は諦念を込めるように目を閉じて空を仰いだ。そして、速度を落として黒い車──シボレーの横に並ぶ。ヘルメットのシールドを上げた彼女は、驚いた様子の運転手に笑いかけた。
「そろそろ姿を見せてくれてもいいんじゃないですか、ストーカーさん?」

「...片桐棗、というのは君のことで間違い無いな?...少し、話をしたいんだが」
適当なパーキングに車を停め、愛車に凭れ掛かりながら彼はそう言った。黒っぽい服装にニット帽、緑の目を持つ長身の男──まさしく、棗の予想通りの人物である。
(......やっぱりこの人もか...その界隈でどれだけわたしの名前出回ってんの...)
棗は内心でそう呟いた。先日の日本警察からの勧誘といい、最近やけに勧誘目的で近づいてくる人間が多いような気がするのだ。何処の組織に所属するつもりもない棗としては、面倒なだけなので止めてほしい限りなのだが。
「...申し訳ないんですけど、今日は早く帰るように親に言われてるので、」
「ホォー...咄嗟に考えたにしては上出来だが、残念だな。お嬢さんにそういうことを言える立場の存在はいない筈だが?」
此方から積極的に其方に関わる意思はない、そう言外に示しつつ用意しておいた台詞を述べる。しかし、その程度の拒絶には動じずに彼は薄く笑みさえ浮かべて棗の口実を奪ってしまった。形勢の不利を突きつけられて彼女は苦笑する。
「...先回りして調べてくるなんて、流石に侮れませんね。FBIの、赤井秀一さん...名前は他にもあるみたいですけど」
「...フッ、此方からも流石、と言わせて貰おうか、“稀代の天才”、“クラルテ”──お嬢さんのことだろう?」
棗がその名を呼ぶと、彼──赤井秀一は興味深い、とでも言うようにそのモスグリーンを細めた。対する棗は、その界隈──否、領域と言うべきか──でしか通じない名を呼ばれて諦めたように軽く目を伏せる。
「あーもうやっぱりそういう...分かりましたよ、此処では少々しにくいお話なんでしょう、移動した方がいいのでは?」
渋々逃亡を諦めた棗がお手上げだと言わんばかりにそう提案すると、赤井も頷いた。
「そうだな、話が早くて有難い。...着いて来てくれるかな?」
「徒歩での移動範囲内であれば構いませんよ。...ただ、手短にお願いしますね」
先日、降谷と会ったときのことを思い返し、相手の車には乗らないことを予め伝える。彼女の言葉に、赤井は成程、用心深いことだと頷いた。
「了解。...それでは」

今回連れてこられたのもバーだった。...何だろう、諜報員という奴はバーが好きなのか。そうなのか。そして今日も制服を着ているわけではないがわたしは未成年である。...いや、そういえば彼はFBI──アメリカ人だったか。かの国では成人として認める年齢が日本よりも低かっただろうか──18歳あたりとか?いや、何れにしても無理がある。わたしはまだ17歳だ。脳内で思考を迷走させている棗に、赤井は感情の読めない表情のままに声を掛ける。
「お嬢さんは何か飲むか?」
「いえ。...あと取り敢えず、少なくともこの国ではわたし未成年なんで...それで、お話というのは?」
長居する気はない、と言下に示した棗に赤井はフッと笑みを浮かべた。そして、面白いと言わんばかりの表情のままに本題を切り出す。
「ああ...単刀直入に言おう、......君はFBIに入る気はないか」
「残念ながら、答えはNoです。というか、これまでわたしが幾つも諜報組織の勧誘を蹴り続けてきたことくらいご存知だと思ってたんですけど?」
「ああ、知っていたさ」
侮られないようにと笑みを作って、棗は今度こそきっぱりと拒絶の言葉を口にする。すると、その反応にはさして驚いていない様子で赤井は頷いた。そしてそのまま言葉を続ける。
「だが、此方は条件が違う。組織が現在、日本を拠点として活動しているのは知っているだろう?我々はお嬢さんを国外へ逃がすことも、その情報を秘匿することも出来る」
どうだろうか、と赤井は棗を見遣ったが、彼女はきっぱりと首を横に振った。
「...お断りします」
「ホォー?何か理由が?」
僅かに驚いたように──そしてどこか愉快そうに、赤井は問うた。その視線を受けて、棗は淡々と理由を述べていく。
「わたし、国外逃亡する気も誰かに護ってもらうつもりもないので。それと、今のところ特定の組織に所属して...っていうのは考えてないんです」
「成程、理解した。物で釣るようなことを言って済まなかった」
棗の言葉に赤井はそうか、とひとつ頷いた。「...ところで、」依頼なら、受けてくれるのか?そう、少しきまり悪そうに付け加えられた言葉に、棗は幾分素に近い笑顔で首肯した。
「ああ、それは勿論。わたしの可能な範囲でしたら、依頼はお受けしますよ」
棗の言葉に赤井はほう、と納得したようにもう一度頷く。そして、連絡先の書かれたメモを差し出して「長居する気はないんだろう?」と面白がるように微笑んだのだった。

(つっかれたー...当分出歩かないでおこう。食料も買い込んだし...やっぱり引きこもってるのが一番安全だからね)
(あの度胸に腕前...やはり欲しいな、彼女は)

170925.
Title:エナメル