今夜の宝食堂は、何故だか特別忙しい。
ひっきりなしに入る、新規の注文。
ホールに出れば追加の注文に呼び止められ、注文を伝えに厨房に戻れば、ずらりと並んだ伝票を見て上から順番に料理を作る。
運ぶ人も当然いないので、できた料理から自分で配膳する。
当然お皿も足りなくなるので、空いたテーブルから順番に下げる。
メニューの一部はもう材料がなくて、売り切れだと伝えて回る。
普段なら品切れになったメニューは紙に書いて貼るのだけれど、最早そんな余裕すらもないからだ。
私の相棒たちも今日ばかりは応援ではなく、いつになく忙しく動き回り、私や女将さんを助けようと頑張ってくれている。
もちろん、あの常連のお客さんは今日も来てくれているのだが、私は残念なことに後ろ姿しか見ていない。
あまりの忙しさに、今日はアオキさんと喋ることはないんだろうと思いながら、丸まった黒い背中を座敷席から遠目に見つめていた。
「ありがとうございましたー!」
どんなに忙しくても受付の彼の声には、なるべく集中した。
話せなくったって、常連さんのお帰りを見送るくらいはしたい。
だから受付の彼のありがとうございましたの声に、毎度出入口を確認した。
今度こそアオキさんの姿が、店の外へと出ていくのが見えたのだ。
だから、受付の彼に続いて騒がしい店の中でも彼に聞こえるようにと、精一杯の声で来店のお礼を伝える。
本当に今日はアオキさんと、一言も話すことができなかった。
今までは金曜日の夜といえど多少話すこともできたのに、今日は一体なんなんだ。
さっきまで彼のいた席で、ぴょんぴょんとプラスルとマイナンが跳ねるから、早く片付けてと言っているのだろう。
彼によって清々しいほど綺麗になったお皿を何枚か重ねていると、ふと視界に黒っぽい布の塊が見えた。
これは、いつの日か大変な仕事の時に使うものと言っていた気がする。
「すみません!すぐ戻ります!」
女将さんに何をとも言わずに、私はそれを持って店を飛び出した。
きっと慌てる様子の私から、女将さんは察してくれるだろう。
探している人がまだ近くにいますように、と願いながら辺りを見回す。
「アオキさん!」
少し猫背な黒い背中の人を見つけて、思いっ切り叫んだ。
自分からはなかなか出てこないような声量で、夜も更けるチャンプルタウンに響き渡ったのが、少しだけ恥ずかしい。
それでも今は、そんな事を恥じらっている場合ではない。
あの人の大切な仕事道具を、届ける必要がある。
「アオキさん、これ!あっ…」
元々運動神経も良い方ではないし、少し長めのエプロンが走るのには適していない。
何もないところで躓いて転ぶなんて、いい大人が何やってるんだろう。
さっきまでアオキさんの振り返る顔が見えていたはずなのに、彼の爽やかな水色のネクタイが見えて、黒いジャケットの裾が見えて、視界はどんどん下の方へと移っていく。
同時に、エプロンに付いたかいがらのすずが慌ただしい音を立てるから、もう崩れた体勢は立て直せないと諦めた。
せめて彼の大切なグローブだけでも守らなくては、とそれを強く握りしめて覚悟を決める。
しかし私の予想とは異なり、地面にぶつかることはなく、代わりに常連さんと思いっきりぶつかった。
私の背中に彼の両手が回され引き寄せられると、途端に暖かくて、私がまだ知らない匂いに包まれる。
急激に距離が近くなった2人の足元に落ちた、彼のビジネスバッグの音が、少し遅れて聞こえてきた。
「怪我は、ありませんか」
頭の上から降ってきた彼の優しい声色に、自分の身に何が起きてるのかが全く理解できなかった。
それでも、どくどくと響き渡る、どちらのものかもわからない鼓動だけは、はっきりと感じることができた。
「だ、いじょぶ…です、あの、その…」
「…失礼しました」
自分が何を喋っているかあまりよくわからなかったけれど、とりあえずグローブのことを言おうとなんとか口を開く。
すると、今日初めて知った香りが離れて薄れていって、ようやくアオキさんの顔がちゃんと見えた。
きっといつもの見間違えだろうが、一瞬だけ名残惜しそうな顔をしていたような気がする。
「お忘れもの、です…仕事で必要なものだと聞いていたから」
「すみません、わざわざありがとうございます」
真っ黒のグローブをアオキさんに渡すと、彼は少し見つめてそれを握りしめた。
「良かったです、届けてくれたのがナマエさんで」
「そ、そうですか?」
「今日はこのまま、貴女とは話せないと思っていました」
そういえば、私がここに来てから常連さんと話せず仕舞いになったことなんて、一度もなかったかもしれない。
「…自分、どうやらここに飯を食べに来ることだけが、目的じゃなくなっているようなので」
「え、っと…?」
「わからなくて結構です」
他の理由を考えようとしたら、アオキさんにぴしゃりとそう言われてしまい、彼はおやすみなさいと言って足早に帰ってしまったので、なにも考えずにその背中をただただぼーっと見送った。
彼にそう言われたから、というより、自分の不注意といえ、事故でもあんな事があった後で、何かを考えようとしても何も考えられるわけがない。
見送る背中が見えなくなっても、さっきのアオキさんとの距離感をまた思い出してしまい、私はすぐに店に戻ることなんてできなかった。
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