Sucreve

春、そして奇行


春、そして奇行






ある春の日だった。日中は暖かいが朝晩はまだ寒い、そんな時季のことだった。
仕事を終えて帰宅していると不意に目の前に人影が現れた。
人影は街灯に照らされて、その黒いコートをはためかせた。赤と黒が印象的なコートだった。
コートの人物は帽子の鍔を片手で押さえながら何か差し出してきた。それは小さな銀色の鍵だった。一体何の鍵だろうか。
「わたくし、あなたさま以外を抱くつもりはございません」
低い声だった。何を言っているのかわからず一歩退こうとした私の手に無理矢理それを握らせてくる。
何の鍵ですか、あなたは誰ですか、さっきの言葉の意味は何ですか。どれから聞くべきか、それとも警察に連絡すべきか。浮かぶばかりの選択肢のどれを選べばいいかわからない。
困惑していると彼は急に腰のベルトを外し始めた。ああこれそういう人だ、春だもんな!と警察に通報しようとスマホを手探りで鞄から取り出す。確か叫んだりしたら調子に乗るから落ち着いて冷静でいた方がいいってどっかで見た。すうはあと深呼吸を繰り返して、罵倒の一つでも投げてやろうと意気込む。
「……先程あなたさまにお渡ししましたのはこちらの鍵でございます」
恍惚とした表情と共に寛げられた彼のスラックス。そこは何だかよくわからなくなっていた。金属製の何かが彼自身を包んでいる……?…………あ、これそういう、……所謂貞操帯ってやつだ。男性用の。
何でそんなものの存在を知っているのかというのはさておいて、今この人何て言った?こちらの鍵?これが?こちら?
……意味を理解した途端手の中の鍵が心底気色悪くて地面に叩きつけた。かちんと小さな音を立てて鍵は跳ねて彼の足下に返る。
「…………!!」
とにかく触っちゃいけないやつだ、と走った。通報なんて後でいい。無理。今は逃げるしかない。
背後から「お待ちくださいまし!」と聞こえたが嫌に決まってんだろ逃げるわ。何、露出狂じゃなくて電波?いや新手の露出狂で間違ってないのか?
必死に走って何とかマンションに着いた。震える手で鍵を開けて入り、玄関先に座り込む。何だったんだ、あれ。ていうか誰。
握ったままのスマホでそのまま警察に通報すればいいものを真っ先にSNSを開いた。中毒の悪い癖である。
『変質者いたもう無理何あれ気色悪い!!』
呟くとすぐにいいねと『大丈夫?』『ケガしてない?』とかいったリプライが届く。皆優しい。
リプライとTLを眺めて少し気分が落ち着いたので靴を脱いで上がり、キッチンに向かう。電気を点けてから喉が乾いた、と水を一杯飲み干した。時だった。
ぴんぽん、とチャイムが鳴った。何だろう。宅配便?何か頼んだっけ。
玄関まで行ってドアスコープから覗いて息を飲んだ。そこに立っていたのはさっきのコートの男だった。
「……っ!」
叫び出しそうになったけど口を押さえて我慢した。待って、何で家知ってるの。何でいるの。何しに来たの。
驚きすぎて腰が抜けた。へたりと玄関先にしゃがみ込んで早く帰れと祈る。その間もチャイムは鳴り続ける。
これは通報しないとダメだ、スマホは、と探してさっきキッチンに持って行ってしまったことを思い出した。
自分の気配を悟られないように這い蹲りながらキッチンへ向かう。がちゃりと背後でノブが回る音がした。……待って、私、鍵、かけ、た?
ゆっくり振り向く。それと同じくらいゆっくりとノブが回る。ドアの隙間から見えたのは、にたりと笑う男の顔だった。



end.

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