chapter1 01

シルフは当てもなく旅をする僧侶だった。
道中パーティを組むこともあったが、その場限りのものだ。基本的には一人で世界を彷徨うように歩いていた。彼に故郷ない――正確には、とっくの昔に失われていた。
家族もいない。帰る場所もない。いわゆる天涯孤独というものである。
しかし、哀しみはない。短くはない時が経ち、全てが風化した故郷に、今更感情を揺さぶられるものはない。僅かに残った記憶すら、郷愁を感じるにはあまりにも味気ないものだ。
旅の途中でたどり着いた王都セントシュタインも、旅の一つの通過点に過ぎない。この街で立ち寄った酒場も、一晩を過ごすための宿も、果てしない旅の記憶の中に埋もれていくのだろう。ただ、漫然とそう思っていた。


「なぁ、黒騎士って一体何者なんだろうな」


「噂によるとかなり強いらしいね。王城の兵隊も全く歯が立たなかったとか」


酒場の隣のテーブルから、今この街を騒がす事件についての話題が飛び出した。
黒騎士とは、セントシュタインを騒がす黒づくめの甲冑を纏った騎士である。何の前触れもなくいきなり現れたかと思えば、この国の姫君フィオーネをさらおうとしたらしい。


「王様が黒騎士を退治してくれる人を探しているらしいよ」


「あんなおっかないヤツを倒しに行くなんて冗談じゃねーや」


「でも、王様からのご褒美ってのは魅力的だよねぇ。何が貰えるんだろう」


「貰えるとしても遠慮したいところだね。行くのはよっぽどの馬鹿か命知らずくらいだろうな」


話を聞いていると、どうやら隣の席は旅人同士の四人でパーティを組んでいるらしい。パーティリーダーは黒騎士退治の報酬――王からの褒美に魅力を感じているが、他三人のパーティメンバーは黒騎士退治には乗り気ではないようだ。


(黒騎士、か)


シルフは、コーヒーの入ったカップをソーサーから静に持ち上げた。澄んだ褐色の水面にさざ波が立つ。気紛れに頼んだは良いものの、カップに注がれたコーヒーはなかなか減らない。
カップの水面には、無感情な顔をした自分の姿が映っている。ため息をつきそうになった、その時。


「てめぇ、ふざけたこと抜かしてるんじゃねーぞ!」


怒声と共に、目の前にあったテーブルがどこかへ消えた。
一瞬何が起こったのか全く分からなかったが、少し遅れて聞こえてきた轟音に何事かと首を横に巡らせる。そこには、テーブルだったものを下敷きにして倒れる鎧を着た男がいた。鎧を着ている、ということは十中八九戦士だ。どうやら、シルフの目の前にこの男が吹っ飛んできたらしい。
状況を察するに、吹っ飛んできた男はシルフのテーブルを巻き込み、豪快に壁に激突。派手な物音を立ててテーブルは見事に全壊。そして、シルフはカップの置き場所を失った、というわけだ。
男の吹っ飛んできた方を見ると、こちらには拳法着を着た男が一人。武道家だろうか。先程の男を吹っ飛ばしたのもこの武道家のようだ。


(喧嘩に遭遇するとは……)


シルフはコーヒーを持ったまま途方に暮れた。酒場で屈強の男同士が喧嘩。よくある事だ。――目の前で机が破壊される事態に遭遇するのがよくある事なのかはともかく。
鎧男を吹っ飛ばした武道家らしき男は、そのままの勢いで鎧男に襲いかかる。


「アイツは俺の女だ! 人の女に手を出すとは良い度胸してんじゃねーか。」


「はっ、冗談も大概にしろ。彼女に付きまとっている迷惑男はお前のことだろう! 相手が困っていることにも気付けないとは随分とおめでたいヤツだな!」


吹っ飛ばされた鎧の男も負けじと言い返し、相手の胸ぐらを掴んだ。
今回はどうやら一人の女性を巡ってバトルファイトが勃発したようだ。どうでも良いが余所でやって欲しい。そう思ったのは何もシルフだけではないはずだ。少なくとも、二人が起こした騒ぎは店側からしてみれば迷惑極まりない行為である。
――さて、どうしたものか。


今にも取っ組み合いが始まりそうなピリピリとした空気の中、突如緊張感のない声が聞こえてきた。


「あーちょっとちょっと、そこのお二人さん」


空気を読もうともしない、新たな人物の乱入に、取っ組み合う男二人は胡乱なものでも見るかのように振り返る。
シルフからは後ろ姿しか分からないが、二人の前に立ちふさがったのは、紫色の髪をした青年だった。異国情緒溢れる不思議な服を着ているが、どこかの民族衣装だろうか。しかし、シルフが旅をしてきた中で、こんな服を着る民族は見たことがない。


「あん? 関係ないヤツは引っ込んでろよ」


ギロリと武道家に凄まれても、怯むことなく飄々とした体でやれやれと肩を竦ませる。


「これが外だったら俺もスルーかましてやるところなんだが、場所が場所なだけに放っておけないんだなぁコレが。お前ら、店と客に迷惑かけてるって分かってんのか? こんなところで喧嘩しちゃいけねーことくらい、馬鹿でも分かるぜ」


まるで挑発するかのような言動。
シルフがまずい、と思った時にはすでに遅かった。


「なんだと?!」


「さっきから大人しく黙っていれば好き勝手言ってくれるじゃないか」


男達の怒りの矛先が青年に向けられる。


「痛い目見なくなきゃ引っ込んでろ!」


血の気の多そうな武道家……というより最早チンピラと呼んだ方が正しいだろうか、その男は早々と暴力に頼って殴りかかってきた。
このまま青年が殴られて先程の鎧の男のように吹っ飛ばされたら、青年の後ろにいる自分もただでは済むまい。大破したテーブルに自分の末路を見出してしまったシルフは、青年の巻き添えを食らう覚悟を決める。
しかし、そんなシルフの悲壮な覚悟を余所に、青年は襲いかかってきた男の拳を軽くはぐらかすように受け流す。


「なにぃ?!」


体勢を崩した男はシルフの方へとよろめいたが、青年が胴着の帯を掴んだおかげで間一髪男がシルフに倒れかかってくることはなかった。
そして、帯を掴まれた男は、そのまま荷物か何かのように投げられて鎧の男に衝突。大の男を受け止めた鎧男はふらついたものの、どうにか踏ん張ってその場に留まる。


「くそっ、ナメやがって!」


「どこの誰かは知らないが、男同士の戦いに首を突っ込むのはやめていただこう!」


チンピラ同然の武道家に鎧男も加わって、青年は呆れたように頭をかく。


「はぁ……ただの女の取り合いが男同士の戦いとはな、おめーら情けなくねーのかよ」


それはシルフも同感である。
頭に血の上った男二人が青年に掴みかかる。今度こそ危ない、シルフだけでなく店内にいる誰もがそう思った、が――。
二人の攻撃をひょいひょいと躱したかと思えば、あっという間に両方の胸ぐらを掴んだ青年は、そのまま男達の頭と頭を勢いよく衝突させた。それはもう、楽器のシンバルを鳴らすかのごとく、豪快に。
互いの頭をしたたか打ち付けた男達は、そのままズルズルと倒れてしまった。


「今日はリッカのオーナーとしての記念すべき初仕事だっつーのに、ここぞとばかりに騒いでくれやがって」


ブツブツと文句を垂れるこの青年は、どうやらこの酒場に併設されている宿屋のオーナーの知り合いらしい。
シルフは、目の前で繰り広げられた光景をただ呆然と見守ることしか出来なかった。コーヒーのカップを持っていたことも忘れそうになるくらい、青年の登場はあまりにも鮮烈で――。


「あー、動いたら何かノド乾いてきたな。なぁ、あんた」


クルリと青年が振り返った。赤い双眸がとても印象的だった。
ぼうっとしていたせいか、シルフの反応が少し遅れる。


「……私ですか?」


「ああ。ずっと持ってるけどよ、それ飲まねーのか?」


「これは……もう、冷めてしまいましたから」


ぬるいコーヒーほど不味いものもなかなかないだろう。
青年が指摘したのは、シルフが持ち続けたおかげで辛くも難を逃れたコーヒーカップ。並々と注がれたコーヒーは、一口も飲んでいないため、少し傾けただけでもこぼれてしまいそうだ。そんなわけで、後生大事そうにカップを両手で持っていたは良いものの、先程の乱闘騒ぎの最中コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
それでも飲むか飲まないか迷っていると、そんなシルフの手から、いとも簡単にカップが取り上げられてしまった。


「ふーん、飲まねーならそれ俺にくれ」


そう言ったが早いか、青年はぐいっとカップの中身を一気に飲み干した。そこまで喉が渇いていたのだろうか。よく分からないが、とりあえず良い飲みっぷりではある。カップを取り上げられ行き場をなくした手を中途半端に上げたまま、シルフはただ青年がコーヒーをあっという間に飲んでしまうのをだだ見ていた。


「あの……」


飲み干した頃を見計らって口を開いたは良いものの、何と声をかけたものかシルフは咄嗟に迷った。
そしてコーヒーを飲み干した青年は、一言。


「……にっが!!」


心底そう思っているのが分かるくらい、青年は口をひん曲げて言葉を吐き出す。
苦いのは当たり前だろう、コーヒーなのだから。シルフは他人事のように心の中で思った。しかも、青年が飲んだのはミルクも砂糖も一切入れていない純粋なブラックコーヒーである。苦くない方がおかしい。


「……コーヒーはお口に合いませんでしたか」


躊躇せずあっという間に一気飲みしてしまった様子から察するに、青年はコーヒーを飲んだことがないらしい。今どき珍しいとは思うが、コーヒーは嗜好品、いわば贅沢品である。セントシュタインやサンマロウなどの都市部ではよく飲まれているが、その他の地方出身であれば飲んだことがなくてもおかしくはない。


「……ふはっ、良く分かんねーけどお前、こんなの飲まなくて正解だな!」


苦いと言いながら、なぜだか青年は笑っていた。真夏の青空のように晴れやかな笑顔を、青年はシルフに向ける。
しばらくその顔を呆然と眺めていたシルフだったが、やがてその笑顔につられたように目元を緩め、柔らかく微笑む。
――笑うのなんて、いつぶりだろうか。
凍てつき固まってしまった心に、暖かな風が吹いたかのようだった。

思えばこの時すでに、シルフは青年の人柄にどうしようもなく心惹かれてしまったのかもしれない。

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