011

イーリスへやって来てから十日余りが過ぎようとしていた頃。
フィオルはいくつもの魔道書を抱え、よろよろと廊下を歩いていた。
ファイアー、サンダー、ウインド……色とりどりの本の中に、やはりというか紫色の装丁は一冊もない。


(闇の魔法を使うのは、ペレジアの呪術師くらいのものよね)


こんなにも光に溢れた国で、闇の呪文なんて似つかわしくないにも程がある。
かく言うフィオルも一応呪術師の端くれではあったので、闇魔法を使えるには使える。しかし、闇の魔法は他の魔法に比べて扱いが難しいところが難点だった。闇魔法は全般的に、火力があってものコントロールが難しいという使い勝手の悪さが目立つ。
ペレジアでは闇呪文を使っていたフィオルだったが、イーリスへ来て初めて炎や雷、風の魔法を使った時はその使いやすさに少々どころではない感動を覚えたものだ。

(そういえば、サーリャもいろんな魔道書を持っていたのよね。……呪い道具の方がたくさんあったけど)


人を呪うことが生きがいと言っても過言ではないくらい、ありとあらゆる呪術を知り尽くしているサーリャである。サーリャにはいろいろなことを教えてもらったが、やはり呪術に関しての話が多かった。
そんなことをぼんやりと考えていたところ、後ろから声をかけられた。


「フィオル?」


名前を呼ばれたフィオルはピクリと肩を揺らす。それと同時に、その声の主に気がつき、本と一緒に体を振り向かせた。


「クロム……」


こんなところで会うなんて珍しい。そう思うと同時に、どうしよう、とフィオルは狼狽えた。
いつもはだいたいフレデリクかリズも一緒にいるのに、今はクロム一人だ。ここは人気の無い廊下で、つまりここにいるのはクロムとフィオルの二人きり。
王族であることを鼻にかけないのはクロムの美点だし、彼自身がとても強いことも知っている。しかし、そんなクロムの性格が今の状況を作り出したのだと思うと少々恨めしい。


(貴方の目の前にいるのは、敵国の王女だった女なのよ……)


いや、しかしそれはリズにも言える。リズとは二人きりになることがよくあるけれど、リズに対してそんな風に思ったことは一度もない。
あまり考えないようにしていたのだが、やはりと思い至る。
――自分はクロムのことが少々苦手らしい。


「随分と重そうだな、持つぞ」


相変わらずぶっきらぼうな物言いだが、さも当然のように荷物運びを手伝ってくれると言う。


「えっ……い、いいえそんな大丈夫よ。王子様に荷物持ちなんてさせるわけにはいかないわ!」


フィオルは慌てて魔道書を抱え直す。フィオルも王女と言える身分だったが、それはあくまでペレジアにいた頃の話だ。
自分が王女であった頃は荷物持ちなんてしたことはない。呪術師として魔道書を持つ機会はあったものの、今のように4冊も5冊も同時に持っていたわけではあるまいし。
そんなフィオルのあまりもの必死さに瞠目したクロムだったが、やがてふっと目元を緩めた。


「そんなこと気にしなくても良い。ここでは王子である前に自警団のリーダーだからな、困っているヤツを放っておくわけにはいかない」


その“困っているヤツ”というのが、今まさに目の前にいるフィオルというわけだ。
そこまで言われてしまうと頑なに拒むのも何やらおかしいような気がして、フィオルは結局お礼を言いつつクロムの言葉に甘えることになった。


「どこまで持って行くつもりだったんだ?」


「ええと、自警団のアジトまで……」


言いかけて、はたと気付く。これはもしかしなくても、クロムと一緒にアジトまで行く流れだ。
静かな廊下に、二人の足音だけが響く。クロムもフィオルも口数は少ない方だ。こういう時は大概リズがいろんな話を振ってくれるのだが、彼女は今ここにいない。
短くはない沈黙にフィオルが気まずい思いをしていると察したのかは分からないが、クロムがおもむろに口を開いた。


「自警団での生活は、もう慣れてきたか?」


「えっ、と……そうね。みんな親切にしてくれるから、慣れるどころか快適なくらいよ」


「そうか、それは良かった」


――そして、再び訪れる沈黙の時。


(どうしよう、何を話せば良いか全く分からないわ……)


逃げ道を求めて、フィオルは窓の外へと視線を彷徨わせる。そこには、穏やかで平和なイーリスの街並みがあるばかりだ。イーリスへ来て十日程経った今となっては、それが当たり前の風景になりつつあるが、そんな当たり前がどれだけ貴重でかけがえのないものか――そう思うと、フィオルは目をそらすことも出来ず、思わず見入ってしまう。


「フィオルはよく街の風景を眺めているな」


ドキリとして、フィオルは振り返る。クロムがこちらを見据えていることに気付いて、わけもなく狼狽えた。真っ直ぐフィオルを捉えるクロムの視線が、どうにも落ち着かない。


「それは……だって、きれいな街だと思ったんだもの」


フィオルがそう思ったのは紛れもなく本心で、クロムは「そうか」と少し笑った。
クロムは、口数が少ないし、あまり感情が表に出なくて不器用だが、人のことをちゃんと見ているし、困っている人を放っておけない、優しい人だ。
それを知っているだけに、フィオルはクロムとどう接すれば良いか分からなくなってしまうのだ。


「この街が……イーリスが平和でいられるのは、姉さんのおかげだな」


「エメリナ様……そう、そうよね……」


エメリナと初めて対面した時のあの優しい笑顔を思い出す。あんなに優しい人が頂点にいるなんて、この国はなんて幸せなのだろうと思った。


「本当に、そう思うわ……」


魔道書の大半がクロムの手へと渡り、随分と軽くなった腕の中、フィオルは少ない荷物を持つ手に力を込める。


「フィオル?」


「クロム、一つ聞いても良いかしら」


フィオルの心情の変化を知ってか知らずか、クロムがフィオルの名前を呼ぶ。しかし、フィオルは何もない風を装い、クロムに言葉を返した。


「クロムはどうして自警団を作ったの?」


ずっと気になっていたのだ。一国の王子がなぜ自警団をやっているのか。
しかもよくありがちな、貴族によるお飾りの軍隊などではない。そこは平民も貴族も関係なく、実力のある者が集う場所。イーリスへ来てしばらく経った今だからこそ分かる。自警団は国を想うクロムが作り、そんなクロムを慕う人達が集まって、力を伸ばしてきたのだ。


「それは、そうだな……キッカケは姉さんの力になりたかったからなんだが……」


質問が少々唐突すぎただろうか、と様子を窺っていると、クロムは小さく苦笑しながら答えた。


「最初は王子としてどうにか役に立てないかといろいろやってはみたが、それがなかなか上手くいかなくてな」


それは何となく想像がつく。クロムのような実直な人に、笑顔を貼り付けつつ裏で駆け引きをするような権謀渦巻くドロドロとした世界は似合わない。


「だから俺は……王子や王族関係無く、自分に出来ることをやろうと思ったんだ」


「自分に、出来ることを……」


クロムの不器用ながらも実直な言葉は、迷ってばかりのフィオルの胸にストンと落ちる。


(この人は……義務感だけで国を守っているわけではないのね)


もちろん、王族として国民を守らなければ、という思いもあるだろう。それは王族として持つべきプライドでもあるし、クロムが困っている人を放っておけない性分であることは、今フィオルの荷物運びを手伝ってくれていることからも明白だ。
しかし、クロムの根底にある思いは、姉を――大切な人を守りたいという、家族を思う心なのではないか。
そんなことを考えながら歩いていると、もうすぐアジトに着きそうだと気が付いて、フィオルは一歩後ろからクロムに声をかける。


「もうすぐアジトね。……ありがとうクロム」


荷物を持ってくれたことと、先ほどの質問に答えてくれたこと、二つの意味を込めたお礼だったけれど、クロムに伝わっただろうか。
構わないさ、と言ったクロムは、アジトにつくと鍛錬し足りなかったらしいソワレに捕まった。クロムと二人きりは緊張するのでソワレがいてくれて正直助かった。
クロムとソワレが勝負をすることになり、アジトで落ち着いて魔道書を読むつもりだったフィオルだが、先ほどのクロムとの会話を思い出してしまい、なかなか集中出来ない。
やはりクロムは苦手だと、そう思っているはずなのに――もっと話をしてみたい、彼のことを知りたいと思うのはなぜなのか。
フィオルにはまだ分からない。
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