ここは一体どこだろう。そもそも、どうしてこんなところにいるのか。自分はどうしてしまったというのか。
まるで、グラスから溢れる水のごとく、疑問が浮かんでは消えていった。思考を放棄して、自分の存在すら曖昧で。
――気付けば、深い暗闇の中にいた。何もない漆黒に抱かれたような感覚は、冷たいとも暖かいとも思えたが、何とも言えない心地良さがあった。
どのくらいの時間が経っただろうか。何の前触れもなく暗闇から抜け出した瞬間、意識がハッキリしてくるのを感じた。
視線の先には、空ではなく天井があった。どうやら屋内いるらしいと分かったが、依然ここがどこなのか不明だ。窓から差し込む日の光がまぶしい。
覚醒したばかりのぼんやりとした意識では思考回路も鈍く、上手く頭が働かない。
(私、どうしたんだったっけ……)
強ばった体を恐る恐る動かす。頭から何か白いものがポトリと落ちた。手に取ると、濡れた布巾だと分かった。どうしてこんなものが。
さらにぎょっとしたのは、布巾を取った手に手当の跡が見受けられたことだ。自分でした覚えはないので、誰かが治療してくれたのだろう。全身を両手でペタペタと触る。
怪我はほぼ治っているらしく、痛みは感じない。
「怪我……」
それをキッカケに、記憶が怒濤のようによみがえった。
混乱する城、誰かの悲鳴、争う声、武器と武器がぶつかり合う金属音、追い立てるような足音――。
そして、城から逃げた自分。
(私、生きてる……?)
信じられないことに、自分が未だ生存しているらしい。
全てを思い出し呆然としていると、何かがゴト、と落ちる音がした。反射的に音のした方向を見ると、扉の前でこちらを見る少女と目があった。――ツインテールで自分と同じ年頃の女の子。見覚えがないので、知り合いではない。
少女の足元には杖が転がっている。どうやら先程の音は杖を落とした際のものらしい。
お互いにしばらく固まったままだったが、目の前の少女は呆けた表情を一転、ぱあっと喜色満面の笑みを浮かべ、部屋の外へと姿を消した。
「お……起きたっ!! 目を覚ましたよお兄ちゃんっ、フレデリクっ!!」
少女は、クリーム色に近い金髪を左右に揺らしながら、戻ってきた。兄ともう一人の人物の名前を呼んでいたが、ここは少女の家なのだろうか。しかし、部屋の内装と少女の服装はかなりちぐはぐな感じがして、あまりしっくり来ない。――長年閉じこめられるようにして王宮に住んでいたため、城の外の生活事情なんてこれっぽっちも分からないのだが。
(助けられた、のかしら……)
そうとしか考えられなかった。あのまま放置されていたとしたら、追っ手に捕まったか野垂れ死んだか。今生きていることが奇跡のようだ。
「大丈夫? どこも痛いところはない?」
「え、ええ……あなたが治してくれたの?」
「うん! 無事みたいで良かったぁ」
少女は安心したように満面の笑顔をこちらへ向ける。本心からそう言っているのだろう。陰謀渦巻く王宮で育ち、表情を窺うばかりだったフィオルでもすぐに分かった。彼女の笑顔は、日溜まりのように暖かい。
部屋の外から足音がした。音からして二人分。少女が先程呼んでいた者立場だろう。徐々に近付いて、やがて姿を現す。
濃い藍色の髪と瞳を持つ、精悍な顔つきをした青年が立っていた。その後ろには立派な鎧を来た厳しそうな顔つきの男が控えている。
藍色の青年は、少し安心したように顔を緩めた。怖そうな人だと思っていたが、笑った顔が穏やかで、それが少しだけ意外だった。
「目が覚めたんだな」
「えっと、ここは……」
「ここはペレジアとの国境近くの町ですよ。貴女は国境の手前で倒れていたんです」
フィオルの質問に答えたのは後ろにいる鎧を着た方だ。
「国境……」
どうやら、ペレジアから国境を越えてイーリスへと踏み込んでいたらしい。そこで運良くイーリス側の人達に助けられたようだ。
――いや、イーリスの者であれば完全に無関係とも言えないか。
(この人達……イーリスの人、よね)
ペレジアとイーリスの因縁は根深い。
「……助けていただき、ありがとうございます」
鼓動が速まるのを感じた。相手はイーリスの者で、自分はペレジア――しかも王家の血筋だ。今のフィオルがペレジアに戻ったところで王家の権限などあったものではないが、王家の者であったことに変わりはない。
手先が冷たくなったような気がした。イーリスに逃れさえすれば、とは思っていたが、この状況はある意味窮地だ。
フィオルの内心の焦りとは裏腹に、目の前の少女はにっこり笑う。
「どういたしまして! 元気になったみたいで何よりだよ」
「ひどい怪我をしていたからな。あんなところで一体何があったんだ?」
「それは……、」
藍色の青年が訊ねたのは、聞かれたくはなかったが、聞かれるだろうと思っていたことだ。
自分がペレジア王家の者だと分かったらどうなるのだろう。少なくとも自国においてイーリス人などいたら、ただでは済まない。
「実は、ペレジアの者に追われていて……逃げてきたところでした」
嘘は言っていない。でも、本当のことも言っていない。
「ペレジアのヤツらに狙われているのか?」
「ええ……あなた方に助けていただけなかったら、私はきっと……死んでいたでしょうね」
フィオルの穏やかではない言葉に、その場の三人が顔を強ばらせる。
「どうしてペレジアの者に狙われるようなことに」
「それは言えません」
「……なぜです?」
鎧の青年の声音に若干警戒の色が滲む。事情も話せない得体の知れない人間を警戒するのは当たり前だ。
「あなた方を巻き込むわけにはいきません」
ピシャリと突き放すようにフィオルは答える。
イーリスの人間に自分がペレジアの者であることを言えるはずもない。それに――助けてもらったのに、これ以上危険に巻き込むのも気が引ける。
「何のお礼も出来ず申し訳ございませんが、すぐに出ていきます。このご恩は一生忘れません」
そう言って、逃げるようにベッドから降りようとすると、少女が慌てたようにフィオルを止めた。少女の手が肩に触れ、フィオルはギクリと体を強ばらせた。
「待って、まだ完全に治ったわけじゃないんだから動いちゃだめだよ!」
「ですが、これ以上迷惑をかけるわけにも……」
いきません、という言葉が続くはずだった。……外から、切羽詰まった声が聞こえてこなければ。
「ぞっ、賊だぁ!! 逃げろーーっ!!」
町の人間が発した“賊”という言葉に、目の前の青年の表情が一気に厳しくなる。控えていた鎧の青年も窓の外の様子をうかがう。
「クロム様、」
「ああ、行くぞ!」
素早く武器を取った二人はすぐさま部屋の扉へと向かう。
「わ、わたしも行くっ!」
少女も慌てて二人の後を追う。突然のことに固まっていたフィオルだったが、自分も何かするべきかと逡巡する。
――今、自分に出来ることなんてたかが知れているけれど。
(せめて、魔導書さえあれば……)
城の中で育ったとはいえ、身の守り方は一通り学んだ。魔導書の扱いを覚えたのも、その一環だった。
「お前も、すぐに逃げた方が良い」
何も出来ないでいるフィオルに、クロムと呼ばれていた青年はそう言い置いて部屋を出ていこうとする。
「あ、あなた達は……?」
「戦う。……町が襲われているなら、放っておくわけにはいかない」
フィオルの問いに答えると、クロムは今度こそ部屋を出る。フィオルは一人、部屋に残された。
(戦う……)
町の人達のために戦うというクロム。迷いもなく立ち向かって行くその姿に重なる記憶があった。
国を守るため、自ら戦場へと赴く王――フィオルの父親。幼い無力な自分は、その背中を見送ることしか出来なかった。
弟も――フィオルを逃がすために城で起きたクーデターの最中へと身を投じた。
フィオルは何も出来ず、ただ二人が無事に帰ってくることを信じるしかなかった。そして、待っていた先にあったものは、人づてに伝わってきた二人の訃報だけだった。
家族を失い、城を追われ、ペレジアを逃亡してイーリスにまでやってきた。逃げて、ひたすら逃げて、その後は――自分は、このままずっと逃げ続けるのだろうか。
(もう逃げるのは、嫌)
逃げるのが嫌ならば、戦うしかない。
「戦わなきゃ……」
何の迷いもなく、戦うため外へと出て行ったクロムの後ろ姿を見て、不思議なくらい自然とそう感じた。まるで、自分もそうしなければならないのだとでも言うように体が勝手に動き出す。身体の痛みなど全く気にならなかった。
ベッドを降りて、靴を探す。ベッドのすぐ傍にあったそれを急いでひっかけ、ボロボロになった上着を羽織る。
三人の後を追って、フィオルは部屋の扉を開けた。