12
気が付いたら、足を運んでいた。
緑谷と飯田と別れ、いつもの通学路から外れた道を歩く。少し先にオレンジ色に染まる白い大きな建物が見えた。お母さんが来られないのなんて分かりきってるはずなのに、どこか期待している自分が胸の内にいることには気が付かないフリをする。その違和感を打ち消すように、歩みを早め病院へと急いだ。
病室に着くと、お母さんは窓辺に座っていた。夕日に包まれた真っ白な部屋は暖かな色をしているのに、どこか無機質で消毒液の匂いがする。
知らせてもいいのだろうか。それとも。
無意識にポケットの中のプリントを指先で小さく撫でた。もうこの病室には何度も来ているのに、緊張がじわりと滲む。お母さんが授業参観に来られないということは分かっているはずなのに、どうしてか足は自然と病院へ向かっていたのだ。
何度も何度も、お母さんにポケットの中にあるプリントを見せるタイミングを探る。その度に、初めから行けないと分かっているのに知らせてもいいのかという思いが巡った。お母さんを傷つけてしまうのではないかという不安と共に、それは時間が経つにつれて大きくなっていき何時までも心の内側に渦巻く。
しかし、その繰り返された自問自答はあっさりと終わりを迎えた。
お母さんが用意してくれた、子どもの頃に俺が好きだった飲み物を飲み終え、それを捨てようと立ち上がった拍子にポケットからプリントがこぼれ落ちる。それをタイミング悪く、姉さんに拾われてしまった。
その瞬間を期待していたはずなのに、いざお母さんに知らせるとなると緊張と不安で手に汗が滲む。視線を床にずらしたまま動かせなかった。そして聞こえてきたお母さんの声にハッとした。
「焦凍…ごめんね、お母さん行けなくて…」
後悔した。傷つけてしまった。
数時間前の軽率な自分の行動を恨む。謝らせてしまうくらいなら、こんな顔をさせてしまうくらいなら、来ない方が、知らせない方がよかったと。
来た時と変わらない暖かなオレンジ色に包まれた白い部屋の空気は、すっかり冷たくなってしまった。しかし、そんな空気を打ち消すように姉さんが口を開く。
「私が行くよ、授業参観!」
思わず、は?と声に出る。授業参観は平日だ。小学校の先生をしている姉さんには休むことの出来ない日程だろと思ったが、家族の用事なら半休くらいは取れる。ビデオに撮ってくる!と言い出すものだから困った。小学校の運動会じゃねえんだぞと言えば、姉さんのアイディアに賛成だったのかお母さんの顔が分かりやすく曇ったので、結果学校に聞いてみると言うことでまとまった。
気が付くと夕日は傾き、夕食の時間になっていたので姉さんと共に病室を後にする。帰り際、ビデオ楽しみにしてるねと言うお母さんの表情はとても輝いていたが、同時に謝らせてしまったことへの後悔が溢れた。姉さんにそんなにビデオいやならやめるよ?と聞かれたが、いやだけどそっちじゃねえと本心を打ち明けると、姉さんは笑って俺の頭にポンと触れた。
「あのね、自分の子どもが自分のために精一杯考えてくれたことを喜ばない親なんていないのよ。」
その言葉にハッとする。
俺は勝手に想像したお母さんの気持ちを押し付けるばかりだった。俺にとっても、お母さんにとっても、これが初めての授業参観だと言うのに。そう思った時には後悔で澱んでいた心の内側が透明になっていた。
母親に授業参観のプリントを渡せなかった、轟くんは渡せた?と話す前田の表情は後悔と不安で揺らいでいて、まるで自分のようだなと思い、そんな数日前の病院での出来事を思い出した。
「……………一応、伝えた。」
「そっか!やっぱり轟くんはすごいなあ。」
そう言って前田はスッと視線を俺ではなく地面に移す。
前田は自分が話す時も人の話を聞く時も、しっかりと相手の目を見ることは、ここまで関わってきて分かっているからこそ、その行動が本心を隠しているように感じられた。
今、俺がこいつにしてやれることはなんだろうかと考え、そして姉さんがしてくれたように俺は言葉を選ぶ。
「俺も、授業参観のこと言われた日に勢いで病院来て、お母さんに言うタイミング探ってた。言ってからも、最初から行けないって分かってるのに、知らせないほうがよかったんじゃねえかとも思った。
でも姉さんに、子どもが自分のために精一杯考えたことを喜ばない親はいないって言われて、ハッとした。だから、前田の親もそうなんじゃねえか。」
話していてもいつものように視線が合うことは無かったが、俺が話し終えると前田は立ち止まり顔を上げた。ようやく視線ぶつかる。その表情に先程までの揺らぎは無く、代わりに少しブラウンがかった瞳に薄らと浮かぶ涙が夕日と溶け合い輝いていた。
「……………轟くんごめん!」
そんな前田の表情に少し気を取られていると、突然こちらから見ても分かるくらい両手を握り締めて深々と頭を下げてきた。何を思っての行動なのか分からず少し困惑する。
「やっぱり、ママに授業参観のこと伝えてくる…!祐佳のために、一緒に帰る約束してくれてたのに勝手で本当にごめん…!」
ああ、そういうことか。
正直、一緒に帰る約束も俺が勝手に提案したものだろと思ったが、それ以上に自分の選んだ言葉が前田に届いたことが嬉しかった。その後悔も不安も、きっと誰よりも分かるからこそ。
「前田、頭上げろ。そんなに謝らなくていい。」
そう声を掛けると、前田は恐る恐る顔を上げてこちらを伺うように視線を向ける。その表情は申し訳ないと言うように眉と目尻が垂れ下がり、力強く握り締められた両手は少し緩められていたが、少し緊張が込められていた。その表情や姿が、怒られることを危惧する子どものようで思わず笑いがこぼれる。
「………頑張れ。」
気が付くと、姉さんが俺にしたように前田の頭にポンッと触れていた。自分とは違う、猫のように柔らかい髪は触れていて何だか心地が良かった。
「うん!頑張る……!」
そのコロコロと変わる表情は先程までとはうってかわり、眉と目尻が柔らかく下げられていて、嬉しそうに大きく頷く前田の目尻には、また夕日が溶け込んだ透明が輝いた気がした。
そして轟くんありがとう!と言うと、前田は再び病院へと駆け出す。途中、何度かこちらを振り返り手を振ってくるその姿を見えなくなるまで見守った。
2021/06/23