純黒の悪夢/後編

 この先には水族館がある。更にその途中の道は傾斜なので観覧車は加速していく筈だ。このまま手をこまねいていれば大惨事は免れない。
 (どうすればいい)
 何を犠牲にすればいい。
 逡巡の最中、苗字の目は大型クレーン車を捉えた。考えるよりも先にドアを開け、運転席を確認する。動けるみたいだ。
「退きなさい」
 背後には、銀色。
「やあ」
「…あなた、死にたいの?」
「キミはどうなんだ」
「……」
 それには答えず、銀髪の女――キュラソーは運転席に乗り込んだ。このクレーン車が二人乗りで良かった。
 アクセルを思い切り踏み込む。「何で逃げないのよ」彼女の呆れた声を聞くのは初めてだ。これから観覧車に突っ込んでいくという特攻を起こすとは思えないほどの、ゆったりした口調だった。
「…そうだね、少しは、マシなことをしてみたいと思ったからかな」
「それで観覧車に突撃?笑える」
「まったくだ。愉快な人生だよ……本当に」
 そんな会話をしながらフェンスを突き破り、水族館に植えられた木々を押し倒しながら観覧車に突っ込んだ。鉄骨が落下してくる。運が悪ければ運転席ごと押し潰されるだろう。

『――そんなこと、言わないでくれ』

「…嫌になるなぁ、もう」
 ――何でこういう時に思い出すんだ。頼むから引っ込んでいてくれと、どうせ聞こえもしないところにいる彼に述べて、ハンドルを握りしめる。すると隣から「みんな…」と小さな声が聞こえた。どうやら彼女は少年探偵団を助けるべくここへ来たようだ。そこまで考えると、ハンドルを握る苗字の手にキュラソーのそれが添えられた。思わず、彼女を見つめる。
 唐突に理解した。彼女も今、自分と同じ気持ちなのだと。
「止まれェ―――ッ!!!」
 瞬間、運転席目がけて鉄骨が落下してきた。苗字は咄嗟の判断でドアを開け、キュラソーを運転席から追い出して脱出を図った。その刹那には鉄骨の所為で運転席が完全に押し潰され、追撃の如く降ってきた瓦礫によりクレーン車は派手に爆発した。その時苗字にはキュラソーを守らなければという考えしかなく、とにかく彼女の頭を抱きかかえて爆風を浴びた。



 少しだけ、意識を失っていたらしい。次に目覚めた時にはキュラソーの姿はなく、苗字は木陰で一人だった。起き上がろうとすれば体の節々に痛みが走る。この痛みの原因がどうか打撲だけでありますようにと祈り、周囲を確認する。轟々と燃え盛っているのはクレーン車だろう。派手にやらかしたものだ。キュラソーはどこにいるのだろうと視線を彷徨わせていると、
「あっ」
「名前ッ!!」
 松田を発見した。彼は安堵で口元を緩めたが、苗字の姿を再度確認するなり表情を強張らせた。
「何でそんな血塗れなんだ!!」
「あ、いや、これは私のではなくてね、キュラソーの…」
「当たり前だろうがッ!!」
 こんな出血量では立っていることすらままならない。常識だが、多分、松田はそういうことを言っているのではないだろう。済まないという意を込めてポンと肩を軽く叩けば、松田は不満そうな顔をした。
「……ねえ、キュラソー見なかったかい?」
「あ?あの銀髪の女なら……」
 そう言って少し辺りを見回してから、あそこだ、と松田は指差した。「行くのか」「ああ」頷けば、松田は己の不安定な体を支えてくれた。大きな体に支えられ、苗字は、漸く自分が生きている実感を得た。

prev back next