焼けた皮膚をペリペリ剥がすといつも後悔する

「退いていろ」
 そう述べて立ち上がる河南。彼女の手には背中にあった筈の刀袋が。紐は、解かれている。そこから見えるのは竹刀ではない。黒い柄と、金の鍔。
 ――まさか。
 河南の親指が鯉口を切る。輝く銀色が安室の視界に鮮烈に飛び込んできた。
 ――本物の日本刀とでも、いうのか。
 安室の動揺など見えていないかの如く河南は大きく跳躍した。一般的な人間ではあり得ない運動能力。それを惜しげもなく晒し、彼女は抜刀した。刹那に鈍い色の一閃が空間を通過したかと思えば、岩石は粉々に砕けていた。河南は小さくなった岩々を足場にして戻ってきて安室の隣に落下した。それなりの水飛沫が頬にかかり、河南の姿が消える。
「……君には本当に、驚かされてばかりだ」
 安室としてではなく降谷零として、言葉が漏れる。
 一体彼女は何者なのだろうか。これまで培ってきた知識を総動員させても彼女の正体を予想することができない。だがなんとなく、敵ではないと思っていた。もしかしたらそれはただの願望なのかもしれないが。
「河南さん、貴女に何者か訊いたところで答えてくれないでしょうね……………河南さん?」
 返答がないことに違和感を覚え、隣を見る。
 ブクブクブクブク。気泡。薄青の海面の底にぼんやり映っているものは、おそらく彼女の黒髪と手。
「………は?」
 ――ちょっと待て。
 ――これはもしかして……。
「溺れてるんですかッ!?!?!?」





「泳げないなら最初から言ってくださいよ…」
「…少なくとも…泳げるとは言ってない…」
「そういうのを屁理屈っていうんですよ」
 溺れていることに気づいた安室は慌てて彼女を引き揚げた。幸い着水からすぐのことであったため大事には至らなかった。とはいえ彼女は疲れているらしく、安室が彼女を陸まで抱いて帰るはめになった。筋肉がしっかりついていると分かる体つきだが、それでも先程のような人外のわざを繰り出せるような体ではないことは分かる。
 ――この人の主成分は“謎”で出来てるんだろうな。
 最早安室は彼女を正体を暴くことを諦めかけていた。安室透としては謎を解き明かすことは義務に近い行いであるが、それ以上に知らないほうが良いこともあるという世の理を理解していた。歳は重ねたくないものである。
 彼女をパラソルの下にそっと置く。日が遮られているがそれでも眩しいのか目を細めていた。呼吸も正常に戻っていることを確認し、「それじゃあ僕はこれで」と踵を返そうとした。
「おい安室」
 珍しく正しい名前で呼ぶ河南に、思わず足が止まる。
「ヒカルに用があるんじゃないのか」
 まさか彼女からその話を持ちかけてくるとは。反射的に心の壁が築かれ、彼女が入れる隙間を埋め尽くす。
「何故そう思うんですか?」
「勘だ」
 身も蓋もない。(この人と話してたら全てが馬鹿馬鹿しく思えてくる…)思わず溜息が漏れたが河南が気にした素振りはなかった。
「一つだけ訊かせてください」
 もう半ばヤケだった。
「彼の本当の名前って……景光なんじゃないですか」
 そう問うた時の彼女の表情は何も読み取れなかった。しかしただ一言、言った。
「内緒だから知らない」
 その返答に安室は力なく笑った。
「そうですか」
「ああ」
「すみません、変なことを訊いて」
「気にするな」
 本当に気にした様子はない。少なくとも今日、安室がヒカルと話すつもりがないと判断した彼女は手を挙げて別れを示している。それを一瞥し、安室は遂にその場を去る。目の前には平和を体現したような光景が広がっている。しかしながら安室の脳裏には彼女の顔が浮かんでいた。
 ――嘘が下手すぎる…。
 あれではもう殆ど肯定しているようなものだ。一体何のつもりでああ言ったのか。わざとなのか、それとも何も考えていないのか。おそらく後者なのだろう。
「彼女を見ていると、自分が馬鹿に見えてくるな」