決定権は私にあり

「ようやく自由時間ですね」
「はい、お疲れ様でしたナマエさん」

取引先から出ると、外は日が暮れて薄闇が広がっていた。今日は直帰してもいいと言われていたが、これだと家に着くのは普段より遅くなるだろう。私は隣を歩くアオキさんに視線を遣った。

「自分の顔に何か?」
「いえ……アオキさん、このまま帰ります?」

私のその言葉にアオキさんは僅かに目を開く。普段表情を変えない彼の表情に変化があった事に内心驚きながら、さらに言葉を続けた。

「折角チャンプルタウンに来たので、アオキさんのオススメのお店とか教えてほしくて!」
「……それは飯屋でいいんですか?」
「いいんですか!?」
「あなたが言ったんでしょう」

まるで溜息を吐くような物言いでアオキさんは呟いた。確かにそうだ。まさか乗ってくれるとは思っていなかったからなんて失礼過ぎる。

「ええ、そうですね。それで……出来れば美味しいお酒がある所がいいんですが……」
「飲むんですか?」
「こう見えてお酒には結構強くて。それに明日は休みなので!」
「後悔しないのならいいですが」

そんな話をしながら、私達はお店へと歩を進めた。

***
「本当に美味しかったです! それにご馳走になっちゃってすみません、ありがとうございました」
「まあ、自分は上司なので気にせず。ところで酔いは大丈夫ですか?」
「ご馳走様です! 酔い? 大丈夫ですよ〜」
「勧めた自分のせいでもあるので……気分が悪ければすぐに言ってください」

頭の後ろを掻きながらアオキさんはそう告げる。アオキさんは全く悪くない。悪いのであるとすればオシャレなお店にテンションが上がり、美味しいお酒を断る事なく飲んでしまった自分だ。ただ人より酒に強かった事も幸いし、気分が上気して少しだけ酔いが回っているくらいだった。特に問題はないだろう。
暫くすると頬に何か冷たいものが当たった。何だろうと顔を上げると鈍色の雲から雨が落ちてきている。少しだったそれも段々と強まってきた。突然降り出した雨を見て、アオキさんが口を開く。

「とりあえず雨が凌げる場所へ」
「は、はい!」

軒下まで走り、アオキさんはスーツについた水滴を払った。私も同じように軽く拭く。

「すみません……さっさと解散しておけば雨に降られずにすんだのに」
「いえ、自分も楽しんだので。此方こそ傘を持っていれば良かったです」

アオキさんの言葉を聞き、慌てて首を振る。天気予報は雨の予報ではなかった。きっと通り雨だろう。そう思って空を見上げるが止む気配は一向にない。夜も近くなってきたこの時間に、雨で冷えたままなのは寒い。どうしようかと考えあぐねていると隣から声がかかった。

「家近いですが、寄りますか?」
「いいんですか? すみません、タオルとか貸してほしいです」

私のその返答にアオキさんは視線だけ一度こちらに寄越すと、ツイとすぐに逸らした。遠慮しておくべきだったかもしれない。すでに歩き始めていたアオキさんの背が離れていく。どうしようと嘆息した時だった。

「早く行かないと身体、冷えますよ」
「え、ありがとうございます!」

そんな悩みも杞憂だったようだ。立ち止まったままの私に気が付いたアオキさんは、こちらを見ながら首を傾げた。その動きが少し可愛くて頬が緩みそうになる。別に悩まなくてもいいんだよねと納得して彼の後を追った。

「此処です」
「わ、あ……」
「どうかしましたか?」
「や、あの、良いところに住んでるなって……」

アオキさんに案内されたそこは思っていたより立派な所で、失礼ながら口が開いてしまった。また不思議そうな面持ちでアオキさんは私を見つめる。問い掛けに間抜けな言葉を返し彼に続いた。エレベーターが止まり、この階ですと告げたまま話さなくなったアオキさんに黙ったまま着いていく。
どうやらそこが部屋らしい。一つのドアの前で止まったアオキさんは鍵を取り出して、慣れた手付きでドアを開けた。スッと内側へ入るアオキさんに、私も続こうと足を上げた時だった。

「お邪魔しま…」
「ナマエさん」
「えっ?」
「良い上司で居られるのは此処までです」

そうアオキさんは玄関のへりを指差す。中途半端な体制で止まっていた足が震える。越えるか越えないか、ギリギリのラインに足をそっと下ろした。自分自身の鼓動がやけに大きく耳に響く。緊張で唾が上手く飲み込めない。

「それは……」
「あなたが此処を越えてしまえば、それはあなたの選択です」
「…………」
「ああ、残念だ。……タオル持ってくるので少し待っていてください」

目の前で扉が閉まる。このまま帰ってしまおうか。頭の中で先程のアオキさんの言葉を繰り返す。彼が言っていた意味が分からないような子供ではない。理解出来なかったなんて言うにはもう歳を重ね過ぎている。
ああどうすればいいんだろう。ちっとも進まない思考を纏めようともがいていると、ドアが開いた。

「もう帰っているかと……」
「そう、ですね」

アオキさんは僅かに目を見開いた。私もどういった行動を取れば正解だったのか分からないのだ。

「下にタクシーを呼びました、さあ……これを……」
「ありがとう…ございます」

息を小さく吐いたアオキさんは手に持っていたタオルを私へと差し出す。そこでようやく雨で身体が濡れていた事を思い出した。手に取ったまま固まっていると、新品なので気にせずという声が掛けられる。そこまで気を遣ってもらって、突き返すのは違う気がする。柔らかなタオルは冷え切った身体を温めてくれるようだった。

「いえ……。下まで送りますよ」
「はい」

お互いに無言でエレベーターまで歩いていく。箱に乗った私は、どうしても彼の気持ちが知りたくて口を開いた。

「あの、アオキさん。先程の言葉は……? 今までそんな素振りはなかったじゃないですか」
「歳を取ると、取り繕うのが上手くなるんです。それはそうと、ナマエさんは酒に強いんですね。本当に残念です」
「……初めて言われました」

こちらを見ずにアオキさんは淡々と答える。でもそれがより本心だと言っているようで、言葉に詰まった。

***
外を出るともうすっかり夜の姿へと変わっていた。上でアオキさんが言っていたようにタクシーが一台停まっている。チラリとアオキさんに視線を向けるとゆっくりと頷いた。

「お気をつけて」
「タオルありがとうございました。新しい物をお返ししますね」
「お気になさらず。その代わり今日の事を忘れんでください」

玄関先のアオキさんを思い出す。影の差す笑顔を浮かべた、覚悟を決めたような表情を。私はそれに答える事なく、表示板の予約という文字にせかされるようにタクシーへ向かった。

「また明日」

また明日だなんて。明日は休みで会う事なんてないのに、私が会いに来るなんて確信めいた言い方をアオキさんは口にする。
ゆっくりと動き出す車内で、新品のタオルと彼の連絡先が表示された板を握りしめた私は深く息を吐いた。